2023年末。科学誌ネイチャーが選ぶ「今年の10人」の一人に、大阪大の林克彦教授が選ばれた。
林さんの研究チームはこの年の3月、オスのマウスの細胞から卵子をつくり、別のオスの精子と受精させて、マウスの子どもを得ることに成功したと発表した。遺伝的な親はオスだけ、ということになる。
ネイチャーの記事では、オーストラリアの生殖生物学者が、この成果を聞いた驚きをこう表現した。
「いすから転げ落ちた」
林さんらは、どうやって「オスだけでの子づくり」を実現させたのか。
マウスもヒトと同じように、細胞内にある性染色体で性別が決まる。オスは「XY」、メスは「XX」だ。
ただ、オスの細胞を培養していると、Y染色体がなくなってX染色体一つだけになり、さらにまれだが、Xが二つになることがある。
林さんのチームは、いくらでも増やせるiPS細胞を、オスのしっぽの先から採った細胞からつくり、注意深く培養して、オス由来なのに性染色体の組み合わせがXXのiPS細胞を取り出した。
このiPS細胞からマウスの卵子をつくり、別のオスの精子と体外受精させることにも成功し、オスだけから子どもを得た。
iPS細胞から卵子をつくること――。
これこそ、林さんの名前を世界に知れ渡らせた技術の本質だった。
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この技術は、「体外で配偶子(卵子や精子のこと)をつくること」を意味する「In Vitro Gametogenesis」の頭文字からIVGと呼ばれる。
その「始まり」の一つとされるのが2009年、理化学研究所の斎藤通紀チームリーダー(現京都大教授)らの発見だ。
斎藤さんのチームは、マウスの受精卵が育つ過程のごく初期で、卵子や精子のもとになる「始原生殖細胞」ができるために重要な因子を特定し、科学誌「セル」で発表した。
IVG研究がさらに大きな脚光を浴びたのは、2011年だった。
京都大に移った斎藤さんと、当時その研究室の講師だった林さんらが、マウスのiPS細胞から精子をつくり、さらに次の世代のマウスも生まれたと発表した。
翌12年には、マウスの卵子をつくり、同じように次世代を誕生させることにも成功した。
林さんは当時を振り返る。
「記者会見で、記者さんから『1面です』と言われて僕らがびっくりした。こんなちっちゃな細胞が精子になっただけで、本当に?と。iPS細胞から精子ができたこと、卵子ができたことの反響は想像していたよりも大きかった」
新聞各紙は1面で成果を紹介。「不妊解明に期待」などの見出しが躍った。
ただ、研究の原動力は、不妊治療の開発のためというわけではない。
一つの個体のはじまりである受精卵。そのもとになる卵子や精子がどのような過程をたどってつくられるのか? その大きな謎を明らかにしたいからだ。
「僕らの本当の興味はそこにあります」と林さんは語る。
卵子や精子ができてくるには、もとになる「始原生殖細胞」が、卵巣や精巣のなかで成長することが必要だと考えられている。しかも、その過程の多くの部分は、マウスでもヒトでも、まだ母親のおなかの中にいる時期に完了する。
マウスでも、胎児1匹からは数個の始原生殖細胞しか取り出せない。
この細胞にどんな因子が作用して卵子や精子へと成長するのか、実験しようと思ったら、マウスの胎児を何匹、いや、何十匹も使わないといけない。
一方、もし培養皿の上でiPS細胞から始原生殖細胞をつくり、さらに卵子までつくれれば、いくらでも増やせるiPS細胞の特性も生かし、卵子ができる過程で何が起きているかを、さまざまな実験をして確かめることができる。
このように、IVGは研究者にとって非常に強力なツールになる。
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マウスでの研究だけではなく、iPS細胞からヒトの卵子や精子をつくる研究も進んでいる。
京大の斎藤さんのチームは今…