米国の対中拠点の一つになりつつある北マリアナ諸島のサイパン島とテニアン島。80年前、両島では日米が激戦を繰り広げ、日本の兵士と民間人あわせて6万人以上が死亡した。その跡地は今、どうなっているのか。
米軍がサイパン島南西部への上陸を開始したのは1944年6月15日。上陸地点の海岸から4キロほど離れた私有地を訪ねると、黄土色に朽ち果てた四年式十五糎(センチ)榴弾(りゅうだん)砲があった。
【連載】激戦地サイパン・テニアンの今 米中対立の中で
米・北マリアナ諸島のサイパンとテニアンは戦前、日本領として栄えました。第2次世界大戦の日米激戦の末、原爆投下など日本本土爆撃の発進基地となった両島。あれから80年がたち、米中対立の波が押し寄せています。連載の3回目は戦跡地の様子を報告します。
地元住民らによると、野戦重砲兵第九連隊黒木大隊(289人)が使ったものだ。大隊長だった黒木弘景少佐らがサイパンで最も高いタポチョ山の南西に布陣し、米軍が上陸した当日夜、榴弾砲で攻撃した。黒木少佐は攻撃後、協力してくれた現地住民のローレンソ・ゲレロ氏を「明日は米軍の攻撃があるから」と言って、避難させたという。翌16日から17日にかけ、米軍の攻撃で黒木大隊は壊滅した。
ゲレロ氏は戦後、谷間で破壊された榴弾砲の残骸を見つけ、私有地に保存した。「慰霊団が来て、何もないのはかわいそうだ」と周囲に理由を語っていた。息子のワンシー・ディリオン・ゲレロ氏(76)は「父は生前、戦争のことはあまり語らなかった。それでも、日本兵が大好きだと話していた」と語る。
タポチョ山近くのジャングル内の洞窟群には、ドンニーの野戦病院跡が残っていた。一時は約2千人の患者が地面に寝かされていたという。1週間ほど運営したものの、タポチョ山が陥落し、極楽谷と呼ばれる場所に移動することになった。
爆発音を聞きながら、人々は移動した
慰霊団などの案内をしてきた…