写真・図版
イラスト・佐藤茉優希

Re:Ron連載「スワイプされる未来 スマホ文化考」(第6回)

 いつからか、SNSで「暮らし」にフォーカスを当てている人が増えた。暮らしていない人はいないにもかかわらず、自分なりに生活にこだわり、特に家や自分の装いを整えていく人たちは、自分のやっていることを説明するのに「暮らし」というキーワードをよく使う。今回のキーワードは、まさに「暮らし」である。

 社会学者の米澤泉は、『「くらし」の時代:ファッションからライフスタイルへ』(勁草書房)の中で、衣服や装身具といった狭い意味での「ファッション」に限らず、暮らしに取り入れられる様々なモノが「ファッショナブル」になっていることに注目している。彼女が象徴的な出来事として取り上げるエピソードは三つ。

 第一に、三浦展と菅付雅信という2人の消費文化の分析者がそろって、とっかえひっかえ洋服を交換する物欲が先立つ消費よりも、洋服へのこだわりはそこそこに、野菜やライフスタイルにこだわりを見せていることの方がファッショナブルになっていると指摘していること。

 第二に、いわゆる衣服でない領域がアパレルショップのような装いになっていること。たとえば、世界初の旗艦店として2015年にオープンした「Dyson表参道」が、洗練されたイメージの家電をハイブランドのブティックのような装いをしている。同じく「2015年に鳴り物入りで二子玉川にオープンした蔦屋家電もしかりである。家電を扱いながらも従来の家電量販店とは異なるスタイリッシュな売り場展開が注目を集めている」(4ページ)。

 第三に、マガジンハウスが『an・an』増刊号として雑誌『クウネル(ku:nel)』を創刊したこと。『カーサブルータス』ですでに押し出されていた「暮らし」の要素が一層強調されている。米澤は、「21世紀に入る頃から、ファッションのマガジンハウスがファッション(着ること)に距離を置いた雑誌を世に送り出した」と整理している(5ページ)。

 これらを踏まえて、ファッションの主戦場が「着ること」というより、暮らし全体を自分なりに作っていくこと、つまりライフスタイルへと移行していると論じられている。米澤は(衣食住のうち)「衣は食住に駆逐されてしまった」とまで書いているが、それは言い過ぎとしても、ファッションにとって衣服がワン・オブ・ゼムでしかなくなっているという観察は妥当なものだろうと思われる。

 ハイブランドに過剰なまでにお金を払ったり、使い捨てのように商品を季節ごとに買っては捨てたりするような衣服との付き合いは古いものとなった。衣服をそうして消費する人が今もいないわけではないだろうが、メディアやSNSで必ずしも好意的に評価されるわけではなくなった。では何が好意的に評価されているのかというと、ライフスタイル全体をどう装うかということであり、現在における「ファッション」はそこにあるのではないか。

 衣服とそれ以外のジャンル(家電、本、音楽、旅行など)が溶け合い、衣服が特権的な位置を占めるわけではなくなったという米澤の時代認識は、実感レベルで同意できるものだ。まずは、「様々なジャンルが溶け合って、ライフスタイルこそが問題になっている」という論点から話を始めよう。

ライフタイルの前景化とセルフケア

 ライター長田杏奈の『美容は自尊心の筋トレ』(Pヴァイン)は、2019年に発売され直ちに話題を呼んだヒット作だが、タイトルからわかるように「美容」や「メイク」の手法や商品紹介がなされている本ではない。むしろ、ルッキズム(容姿をもとに人を判断する習慣)、エイジズム(若さを美徳とする習慣)、それらに伴う特定の容姿を特権化する視点や、それに適合しないことからくる自己否定の感覚から逃げ出し、自尊心を育むセルフケアをするための様々な提案が本書の中心にある。

 『美容は自尊心の筋トレ』に即すれば、ファッションと同じく、メイクや美容などの主軸も、メイクそのものではなく、どういう自分を育むか、どういう暮らしをするかに移っていると言えなくもない。つまり、ライフスタイルこそが問題であるという方向へと時代の関心はやはり編成されているのかもしれない。

 ライフスタイルの前景化。

 その背景にあるのはSNSの…

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