人気エリアの糸島半島
いつの世も、島国の脅威は海のかなたからやって来る。飛鳥時代や奈良時代もそうだった。ならば、まずは敵の本土上陸を食い止める水際防衛が肝心だ。大陸や朝鮮半島に最も近い九州、その要といえば……。玄界灘に突き出る福岡県糸島半島周辺に築かれた古代山城をめざそう。
福岡市の西、玄海国定公園の一角を占める同半島の海岸線は絶好のドライブコースで、水平線に落ちる夕日は絶景だ。波打ち際にオシャレなカフェが並び、冬場はカキ小屋でホクホクの焼きガキをほおばる。
リゾートにグルメに、と人気急上昇のエリアだけれど、全国的な知名度はいまひとつか。では、魏志倭人伝に登場する弥生のクニ「伊都国」の故地といえば、古代史ファンにはおなじみでは? 新羅遠征の任を負う聖徳太子の弟、来目皇子(くめのみこ)が病に倒れた地としても知られる古代糸島は、歴史上まさに「重要な寄港地であり補給基地、対外交流や軍事、生産、地域支配の拠点」(松川博一・九州歴史資料館学芸調査室長)であった。
それを象徴するのが二つの古代山城だ。7世紀の築造とされる雷山神籠石(らいざんこうごいし)、そして8世紀半ばに12年の歳月をかけて造られた怡土城(いとじょう)で、いずれも国史跡に指定されている。
山城といっても地域勢力が群雄割拠した戦国時代の砦(とりで)ではない。対外戦略を見据えて古代の国家権力が築いた要塞(ようさい)とされ、上屋は残っていないものの壮大な土塁や石垣が山を巡る。最前線の九州から、幹線が貫く瀬戸内地方、都のあった近畿まで西日本に30近くあるという。
記録に残っていない「神籠石」
「日本書紀」によれば663年、友好関係にあった朝鮮半島の百済救援に向かった日本軍は白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、逆襲を恐れていくつもの城を急造した。そのうち記録に残る大野城(福岡県)や金田城(長崎県)などを朝鮮式山城、文献史料にないものを「神籠石」と呼び習わしている。
神が籠(こ)もる石――。なんとも不思議なネーミングである。神籠石はその性格をめぐって明治時代から論争が交わされ、その名も有力候補だった霊域説に由来する。いわば祭祀(さいし)遺構だが、その後一部で調査が進んだ結果、防衛施設である山城でほぼ決着。にもかかわらず、いまも昔の名前で通っているわけだ。
記事の後半では、実際に二つの古代山城を訪ね、神籠石が記録に残らなかった理由などを考えます。
延々と続く山道にそろそろ心…