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「頑張ったなあ」。河野俊一さんは、26年の生涯を全うした晃子さんの写真を見ながら、語りかけるようにそう言った=2024年9月17日、大分市、山本悠理撮影
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 2018年6月30日の朝、河野晃子さんは26歳でその生涯を閉じた。父の俊一さん(67)は、娘を失った悲嘆を詩に刻んだ。

これからも生き続ける私たちは/水を飲まなければならない/おまえが焼かれている間/私たちは何度も/生きている寂しさを飲みくだす
(「のどが渇く」から)

 1991年10月、高校の教諭をしていた俊一さんは双子の長男とともに、長女・晃子さんを授かった。活発で、人を引きつける笑顔を持った子だった。

 3歳のとき、晃子さんは急性リンパ性白血病を発症。そこから、5歳までに2度の再発と骨髄移植を経験した。

 小学校に入るくらいから、病状は徐々に落ち着いていき、定期検査に通うだけになった。友人に恵まれ、海外留学も経験し、大学卒業まで豊かな学生生活を送った。

 2015年、24歳になって社会人として働いていた晃子さんが足の痛みを訴えた。病院で滑膜肉腫と診断され、入院を余儀なくされた。

 手術を終えてほどなく、今度は大腸がんが見つかった。入院や治療をはさみながら、仕事を続けた。

 なぜ自分だけ? 度重なる困難にあっても、そんな不満を晃子さんが口にしたことは一度もなかったと、俊一さんは振り返る。

 がん発症後につくったストーマ(人工肛門(こうもん))の装具は家族にも交換させず、いつもきれいに自分で貼り付け、身だしなみを整えていた。

 延命治療に切り替わってからは、主治医に自らの余命を尋ねた。歩くのもやっとの中、入院していた友人のお見舞いに訪れ、励ましの言葉をかけた。車いすを押してもらいながら、アイドルのコンサートに出かけたこともあった。

 がん発症から2年の闘病を経て、6月の朝、晃子さんは旅立った。

 娘の死を見つめなければならない深い悲しみ。あふれ出る思いの受け皿になったのは、俊一さんが若い頃から書き続けた詩だった。

あふれる思い 書いて区切りにしようと…

 幼い晃子さんが病を発症して…

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