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熱のこもった議論が交わされた邪馬台国シンポの討論=2024年9月8日、東京都千代田区、今井邦彦撮影
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 公開シンポジウム「考古学が解明する邪馬台国の時代」が今月8日、東京・明治大学で開かれた。邪馬台国の有力候補地である奈良県内からも研究者が参加。「弥生時代と古墳時代の線はどこに引けるか」をめぐり、奈良の古墳や遺跡が議論の中心になった。

 シンポジウムは考古学の学会としては国内最大の日本考古学協会が主催。「邪馬台国」といえば所在地が議論の中心になりがちだが、シンポの冒頭、会長の石川日出志・明治大学教授は「今日は所在地の論争はしない」と宣言。パネリストも多くが「畿内説」を前提に議論を展開した。

 史書「魏志倭人伝」は、女王卑弥呼が倭国(今の日本)の王に共立され、中国の魏王朝から「親魏倭王」の金印を与えられたと記す。多くの考古学者は、この過程で「ヤマト王権」が成立し、弥生時代から古墳時代に移行したと考えている。

 その転換点を示す遺跡はどこか。福永伸哉・大阪大学教授は、奈良県桜井市の箸墓古墳を挙げた。全長280メートルの、最古の巨大前方後円墳だ。

 箸墓古墳の築造後、各地に同様の前方後円墳が出現する。「各地の勢力に『共立』された王だった卑弥呼が、魏に地位を認められ、他とは隔絶した存在になった。その卑弥呼が隔絶した規模の箸墓古墳に葬られたことで、古墳時代が始まった」と述べた。

 これに対し、桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は、「卑弥呼が共立され、倭国の新たな王都として纒向遺跡が出現したことこそが、ヤマト王権の成立を示す」として、同市の纒向遺跡の重要性を指摘した。

 纒向遺跡では大規模な居館などの建物が整然と並び、全国各地の土器や、海外からもたらされた珍しい植物も出土している。ただし寺沢さんは、新たな王権の母体となったのは地元の「邪馬台国=ヤマト国」ではなく、北部九州の「イト国」を中心に中国とも外交を展開してきた「イト倭国」だったと主張した。

 奈良県立橿原考古学研究所の岡林孝作・学術アドバイザーも、県内の古墳を数多く発掘調査してきた立場から、福永さんの見方に疑問を投げかけた。

 纒向遺跡の周辺にはホケノ山古墳など、箸墓古墳より古く、全長90メートル前後の前方後円形の墳墓が複数存在する。寺沢さんが「纒向型前方後円墳」と名付けた墳墓群だ。ホケノ山古墳を調査した岡林さんは「それまでの墳墓に比べて十分に巨大で、銅鏡や武器も副葬されている。箸墓古墳より古いから、これらは古墳ではないと言ってしまっていいのか」と指摘し、纒向型前方後円墳の意義を強調した。

 かなり専門的な議論だったが、会場とオンラインを合わせて約650人が熱心に視聴。奈良の遺跡や古墳の重要性を、あらためて認識させるシンポジウムだった。(今井邦彦)

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