若いときは、いつも怒っていた。
米国ジョージア州に暮らすガーナー勝江(86)は、自分の精神状態がふつうじゃない、何かおかしいと思っていた。
予防注射を怖がる幼い長男の腕を傘でたたいたり、末っ子の四女を何かの拍子で押した長女に、はさみを投げつけたり……。
しかし、米国で5人の子どもを育てること、生きることに、必死だった。何かあれば感情がコントロールできなくなる自分の行動の原因がどこにあるのかを考える余裕はなかった。
勝江の故郷は、沖縄だ。本島中部の中城(なかぐすく)村で育った。
農家の一人娘。畑には1年じゅう芋があり、豚を飼っていた。現金はそれほどなかったが、何不自由ない生活だった。
しかし1945年、人生が一変する。
米軍の攻撃にも怖さを感じなくなった
3月末、海が米軍の艦艇で埋め尽くされた。沖縄本島の各地に向けて、米艦が砲撃を始めた。
家から少し離れた山の防空壕(ごう)。近くの小さな木の下からは、東に広がる太平洋が一望できた。そこで休んでいたおばが、艦砲射撃で首を吹き飛ばされた。集落で初めての犠牲者となった。
自分をかわいがってくれたおばの死は、胸が張り裂けそうなほど悲しかった。涙が止まらなかった。
4月1日、米軍約17万が沖縄本島中部の西海岸から上陸を始め、3日には東海岸にある中城村に達した。一帯は日本軍との激戦地となる。勝江は、母や祖母らと着の身着のまま逃げ、途中で見つけた防空壕に身を寄せた。
米軍の激しい砲爆撃にさらされ、後に「鉄の暴風」と呼ばれることになる沖縄戦。隠れていると、爆弾で壕の天井が吹き飛ばされた。頭上に空が広がったが、そのころには心がまひして、怖さも感じなくなっていた。ただ黙って隅の方に座っていた。
何週間も続く戦闘の中、食べ物を探しに壕を出た祖母が、背中を血だらけにして、震えながら戻ってきた。夜になり、祖母が「どうせ死ぬなら自分の村で」と言い出した。
みなで動き始めたところ、近くにいた日本兵が「行ってはいけない。あそこはもう戦場になっている」と忠告してきた。
それを聞いた母は急に、いと…