びわ湖音楽祭への思いを語る加藤登紀子さん=2024年4月22日午後1時38分、大津市の滋賀県庁、林利香撮影
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 「琵琶湖周航の歌」の誕生100周年をきっかけに始まった「びわ湖音楽祭」が今夏、6番目の歌詞で歌われた場所を巡り集大成を迎えます。音楽祭をプロデュースしてきた歌手の加藤登紀子さんに歌への思いを聞きました。

 ――琵琶湖周航の歌の思い出を教えてください。

 この歌を歌うたびに私は二つの故郷を思います。私は1943年、旧満州のハルビンに生まれ、戦後は、母の実家がある京都で過ごしました。私の曽祖父が滋賀県守山市出身で、そこから京都に出て、呉服屋を営みました。私は「さすらいの人」として生まれたと思ってきたのですが、父は「お前には立派な故郷がある。琵琶湖を誇りに思いなさい。故郷のないものとして生きるな」と言っていました。

 父は周航の歌が大好きでした。私がこの歌を最初に聞いたのも父からです。父はロシア民謡を歌うことが多かったのですが、京都に住んでいた当時、鴨川のほとりを歩きながら周航の歌をよく歌っていました。のちに夫になる藤本敏夫も歌っていました。父と藤本の共通の歌というのも不思議な縁です。

 学生時代、私の周りにいた京都の学生が周航の歌を歌っていました。カラオケもない時代、飲み屋でお互いに歌って聞かせるような、みんなに愛された歌です。のちに歌手として歌うことになるとは思ってもいなかったです。

 ――この歌を作ったのは学生ですが、どう思われますか。

 1917年6月28日にできたと、日にちまでわかっています。歴史の中でも珍しい歌です。作詞した旧制三高水上部(現京都大ボート部)の小口太郎は19歳。当時、学生たちに知られていた「ひつじぐさ」のメロディーに乗せて歌ったら瞬く間に広がりました。

 ひつじぐさは、その2年前、20歳の吉田千秋が作曲しました。未来あるふたりが作り、若くして亡くなった。周航の歌には、若者の未来が込められています。

 ――どんな未来を描いていたと思われますか。

 歌が生まれたのは、大正デモクラシーの希望に満ちた時代だったんでしょうね。誰の支配も受けない学生が自分の思いの丈を歌に託す。自由な表現で作ったのではないでしょうか。

 小口さんは作詞から7年後の1924年、兵役の悩みなどから26歳の若さで自らの人生を閉じたとされています。小口さんは直接、第1次世界大戦を見ていないと思いますが、新しい日本を良い国にしようと燃えていた1人です。次の時代は戦争になってはいけないと強く感じていた若者が多かったと思います。

 彼らが描いた未来に戦争など求めていなかったはずです。だからこそ、彼らの夢見た平和への願いを思いながら歌いたい。

カバー曲、不安だった

 ――今の若者はどういう未来を描けばいいのでしょうか。

 私の高校時代は60年安保のころです。戦後15年しかたっていません。日本はまだ船出したばかりで、日本がどこに向かっていくのか、私たちが決めるという気持ちでした。未来は私たちの手に任されている、と野望を持っていました。

 今の日本は、この国をどうしていくか、隙間がない。空席がない。制約が多い国になったと感じます。ちゃんとやっているのに面白くない。

 だから、私が今の若者だったら「めんどくさい国に生まれちゃったな」と思うかな。でも、まだまだ選択肢がいっぱいある。そう思ってほしいです。

 初めから制約の中にいるような気持ちになるより、ゼロから旅を始めるような気持ちで生きることです。いつだって「私」なんですよ。あれもできる、これもできる。ひとりの人間として選べるわけだから、制約に縛られることはありません。

 ――琵琶湖周航の歌を次の100年に歌い継ぐには、どうしたらいいでしょうか。

 100年歌い継いできたということは、未来にも生きる歌であるはずです。古いものに未来を探しに行くという可能性があるんですよ。

 新しい文明は壊れやすく作られているような気がします。壊れないと、次のものを買ってもらえないから。だけど、古い文化は永久性を求めて作ってあるから、ずっと残って未来につながる可能性があります。

 流行と不易。変わるものと変わらないものがある。ずっと変わらずにあるものの上に、変わり続けるものがのっている、と私はみています。

加藤登紀子さんが歌を通して伝えたい次世代へのメッセージとは。記事後半で聞きました。

 ――音楽はどうでしょうか…

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