本名も生没年も不明
千年を超えて読み継がれてきた平安時代の長編小説「源氏物語」。作者は言わずと知れた紫式部だが、実はその本名も生没年も分かっていない。式部が暮らした現在の京都市と東隣の大津市のゆかりの地を訪ね、謎多きベストセラー作家の伝承が生まれた背景を探った。
まず、史実や研究で分かっていることを押さえておく。
誕生したのは970年代とみられる。父は漢学者の藤原為時(ためとき)。母は早世した。98年に藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、娘を産むが、宣孝は1001年に亡くなる。05年ごろ、時の権力者・藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子(しょうし)のもとに出仕。宮中では「藤(とう)式部」と呼ばれたらしい。没年は、14年ごろから31年まで諸説ある。
紫式部の名の由来は分かっていない。源氏物語の登場人物「紫の上」や、後ほど出てくる紫野(むらさきの)という地名も説の一つだ。
「聖地」になった石山寺
最初に向かったのは、物語を書き始めた地と伝わる大津の石山寺(いしやまでら)。2両編成の京阪石山坂本線に乗り、終点の石山寺駅へ。式部をイメージし、紫色に塗られた駅舎から徒歩10分で門前に着いた。多くの参拝客でにぎわっていた。
創建は奈良時代と伝わる。平安時代には京都の清水寺、奈良の長谷寺(はせでら)とともに三観音として信仰された。紫式部と同時代に生きた「蜻蛉(かげろう)日記」の著者・藤原道綱母(道長の父兼家の妻)も、参拝したことをつづっている。
石段を上がった先の本堂(国宝)の東側にあるのが「源氏の間」と呼ばれる小部屋。火灯窓(かとうまど)の奥に、座って何かを書こうとしている式部の人形が置かれている。
鎌倉時代末に成立した石山寺縁起のこんな逸話を再現したものだ。
《紫式部が彰子に仕えていた時、村上天皇の皇女が彰子に珍しい物語を求めた。彰子から執筆を命じられた式部は、石山寺に7日間こもって祈り続けると、琵琶湖を見て心が晴れやかになり、様々な情景が目に浮かんだ。近くに紙がなかったため、大般若経の裏に書き付けた》
南北朝時代の源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」は、さらに内容を盛った。「八月の十五夜の月」にも言及し、「今宵(こよい)は十五夜なりけり」とつづる第12帖(じょう)の「須磨」と次の「明石」から書き始めたと説明している。
なぜ石山寺だったのか。大津市歴史博物館学芸員の鯨井清隆さん(38)はこう推測する。
紫式部の伝承は、彼女が暮らした京都にも残っています。記事の後半では、邸宅跡とされる廬山寺と、墓所と伝わる地がある紫野を訪ねます。
「本尊の観音菩薩(ぼさつ)…