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湯島聖堂の本殿にあたる大成殿=東京都文京区
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 孔子廟(びょう)は儒学の祖・孔子の霊をまつった建物で、聖堂ともいう。東京都文京区にある湯島聖堂は、江戸時代を通じ、儒学の中心的な存在だった。関東大震災で焼失し、その後再建されたその建物を訪れると、「学問成就 合格」と書かれた絵馬がたくさん下がっていた。学問への情熱は、かつてここで学んだ人たちも強かったに違いない。江戸後期の1797年、幕府によって昌平坂学問所(昌平黌〈こう〉)が設けられたのが、この地だった。

 昌平は孔子が生まれた地にちなんだ名で、昌平坂という短い坂はいまも湯島聖堂に接している。しかし昌平黌の学舎や学寮は痕跡すら残っていない。その場所には東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の校舎が並び、傍らの案内板に「近代教育発祥の地」とあった。明治になってここに師範学校が設けられたことなどが記されている。

 もともと林家の私塾だった湯島聖堂の学問所が、官立の昌平黌に改められたのは、「寛政異学の禁」と軌を一にする。老中の松平定信が推し進めた政策で、儒学のうち朱子学を「正学」とし、聖堂学問所で朱子学以外を教えるのを禁じた。そう聞けば、堅苦しく、後ろ向きの印象をどうしても抱いてしまう。

幕臣の能力向上が狙い

 ただ、定信の狙いは、実務に携わる幕臣の知力、能力の向上にもあったようだ。そのための一種の学問制度改革が昌平黌の設置だった。湯島聖堂の維持管理をする斯文(しぶん)会の事務長代理、清水義徳さんに聞くと、「学問所を林家の私塾から、全国区の機関にする。テコ入れのために、優秀な人材が集められた」と言う。御儒者(教授)に登用されたのが、四国出身の柴野栗山(りつざん)や尾藤二洲(にしゅう)、佐賀出身の古賀精里(せいり)らだった。

 朱子学以外を教えるのは「禁」だが、学ぶことは妨げられなかったようだ。残された蔵書からは、様々な分野の書物が読まれていたことがわかるという。比較的自由な学びがあったのかもしれない。

 幕末まで続いた昌平黌の教授陣の中で、近年再評価が進んでいる人物がいる。精里の子の古賀侗庵(とうあん)である。林家以外は世襲ではないため、教授への登用はあくまで実力による。広島大学の奈良勝司教授は「明治維新と世界認識体系」(有志舎)などの本で侗庵に焦点をあてた。

記事の後半では、侗庵がたどりついた「国家対等」の考え方や、それを引き継ぎ、幕府の外交実務を担った人々を紹介します。

 侗庵の学問の本質とは何か…

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