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外野などの改修工事に入る前に開催された2024年秋季中国大会=2024年10月26日、島根県出雲市、上山浩也撮影
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 島根の球児の戦いを見守り続けてきた球場が、より大きな舞台へと進化する。

 県立浜山公園野球場。山陰地方では初となる「全国規模」の広さへ、この冬から改修中だ。

 両翼91メートル、中堅120メートルだった球場は1974年に誕生した。

 ここでもっとも本塁打を放っているのは、江の川(現・石見智翠館)の中心打者だった谷繁元信(54)=元中日など=だろう。

 88年夏の島根大会。初戦となった2回戦で大会第1号を放ち、3回戦では3打席連続本塁打。その後も準々決勝、準決勝、決勝と1発ずつ快音を響かせた。この球場で戦った全5試合でアーチを描き、計7本塁打でチームを2年連続の甲子園へと導いた。

 「ポール際は少し近いかなと思ったけれど、当時は高校生だったし、狭いという感じはしなかった」と谷繁。当時を振り返りながら語った球場の一番の思い出は、「何よりもグラウンド整備がしっかりとされていた印象が強く残っているんですよ。選手にとって、すごくいい球場だなと思いながらプレーさせてもらった」と語る。

 初戦からコールド勝ちを重ねた江の川だったが、準決勝の平田戦では冷や汗をかいた。四回にリードを許すなど緊迫した競り合い。七回表には、4―4に追いつかれた。

 その裏、打席に立ったのが主将の谷繁だった。

 「ちょっとまずいな、という雰囲気を感じていた。とにかく自分のスイングをしよう」。そう振り抜いた一打は中堅へ伸び、決勝の2点本塁打になった。

 ベースを駆け抜ける谷繁を平田の監督としてベンチから見つめていたのは、後に県高野連理事長も務める錦織正実(76)だった。「谷繁さんは、とにかく肩が強い鉄砲肩でね。一塁への牽制(けんせい)も鋭くて、走者は大きなリードが取れなかった。どう攻めようか……」。終盤での失点。思わず天を仰いだと振り返る。

 現在も古希野球でプレーする錦織は学生時代から捕手だ。昨夏、松江市営野球場であった島根大会の開幕試合では、中学時代にバッテリーを組んでいた同級生投手の西治(おさむ)と始球式をするという縁に恵まれた。61年ぶりのことだったという。

2024年は大社が旋風

 こうして幕を開けた昨夏の島根大会を制したのは大社だった。大社は甲子園で63年ぶりに夏の勝利を挙げ、93年ぶりの8強入りを果たした。秋の県大会を制したのは出雲商で、62年ぶりの優勝だった。

 「自分たちの始球式が、『何十年ぶり』という久々の出来事が起きるということに火をつけるきっかけになったんじゃないかって、笑い話になったんですよ」。錦織は目を細めた。

 浜山公園野球場は24年秋にあった中国大会のあと、改修工事に入った。30年の「島根かみあり国スポ」の会場になったことが改修の決め手となった。26年には、公認野球規則にある広さを満たす両翼98メートル、中堅122メートルの球場として、新たなスタートを切る。

 錦織は言う。「浜山公園野球場は、日本海からの風に影響されてフェンスをギリギリで越えるホームランもある。でも、球場が広くなるし、バットも低反発のものになった。県内での野球も変わっていくでしょう」

 これから羽ばたいていく球児へ、谷繁は、こんなメッセージをくれた。

 「目標を持つことが大事。こうしたい、こうなりたいんだという狙いを定める。そして、そこへ向かって行く。目標へ、頑張って進んでいって欲しい」

 その強い思いが、快打にもつながるだろう。

=敬称略

島根県立浜山公園野球場 

1974年完成。県立浜山公園内にあり、一畑電車大社線の浜山公園北口駅から徒歩10分。老朽化に伴い、2020年までにバックネット裏の観客席などの改修工事も行われた。

最近10大会の全国高校野球選手権大会の島根代表

2015年 石見智翠館(2回戦)

 16年 出   雲(1回戦)

 17年 開   星(1回戦)

 18年 益 田 東(1回戦)

 19年 石見智翠館(1回戦)

 20年 新型コロナで中止

 21年 石見智翠館(準々決勝)

 22年 浜   田(3回戦)

 23年 立正大淞南(2回戦)

 24年 大   社(準々決勝)

※かっこ内は全国高校野球選手権大会での成績

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