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海底から引き揚げられたモンゴル船の木製碇(いかり)=長崎県松浦市
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 中世日本を未曽有の恐怖に陥れたモンゴル襲来(元寇〈げんこう〉)。長崎県では海に沈んだ軍船が見つかるなど新発見が相次ぐ一方、今なお謎は多い。そんな元寇の実態に迫る国際シンポジウムをのぞいた。

 13世紀後半、ユーラシア世界を席巻するモンゴル帝国が中国に打ち立てた元朝は、2度にわたって日本侵攻をもくろんだ。迎え撃つ鎌倉幕府は、北部九州の玄界灘沿岸部に長大な防塁を築いて防戦。2回目の弘安の役(1281年)では、支配下の南宋遺民や高麗軍を従えて4400隻もの大船団が鷹島(長崎県松浦市)の沖合に集結したが、突然の暴風で壊滅したとされる。

 最初の襲来から750年の節目となった昨年11月、九州大(福岡市)はモンゴル大使館などと共催で国際シンポジウムを開き、両国の研究者が最新の成果を披露し合った。

 当時の生々しい戦闘を伝える記録といえば、肥後の御家人竹崎季長(すえなが)が描かせた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」が知られる。教科書でもおなじみの著名な絵画資料だが、論功行賞を求めて描かれただけに誇張や脚色、加筆が指摘されてきた。

 モンゴル国立大のウラムバヤ…

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