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破綻(はたん)1年後にも山一証券のビルでは細々と清算事務が続いていた=東京・日本橋兜町
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記者コラム 「多事奏論」 編集委員・原真人

 1990年代の金融危機のヤマ場といえば4大証券の一角、山一証券の破綻(はたん)劇だろう。世間の耳目を集めたこの問題に朝日新聞も多くの記者を投じ報道にあたった。私もその一人だ。ただ思い返せば力を入れて取材したのは破綻が正式に決まるまで。自主廃業後の山一で何が起きていたのかまでフォローしなかった。

 そこにも大事な営みはあった。日本発の破綻ドミノが世界に広がらなかったのは、破綻後も山一に長く踏みとどまり、清算業務をあえて引き受けた人たちの努力もあってのことだ。その顚末(てんまつ)を描いた新聞記者出身のジャーナリスト、清武英利氏の作品「しんがり 山一證券最後の12人」で部隊の存在を知った私は取材不足を大いに反省するしかなかった。

 とかく人は事を発展させる、新分野に挑むといった試みに目を向けがちだ。逆に失敗した事業の後始末や役割を終えた事業の整理のような仕事は評価されにくい。今の日本にとって、実はそういう撤退戦こそ何より重要なのではないか。

 東京電力福島第一原発の廃炉プロジェクトは最たるものだろう。その成功なくして原発政策も地域再生も先には進めない。しかし事故後14年となる今もなお、事故炉の燃料デブリの取り出しさえままならない。この作業だけで100年以上かかるとの気の遠くなる試算もある。

 朝倉攻めの織田軍の木下藤吉郎のように、戦国時代の戦では後退する部隊の最後尾を担う殿(しんがり)の功が高く評価された。近年、そういう役割の重要性が正当に評価されていない。そんな気がしてならない。思い出すのは90年代末からの金融再生の取り組みである。

 山一や長銀など大手金融機関…

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