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「国体」の呪縛

デモクラシーと戦争 インタビュー編⑤ 荻野富士夫さん

 100年前に施行された治安維持法は、市民から自由を奪い、国家統制と戦時体制の道具に使われた。同法はどのように誕生し、どう運用されたのか。そこから得られる教訓は何か。歴史学者で治安維持法を研究する荻野富士夫・小樽商科大名誉教授に聞いた。

荻野富士夫さん

おぎの・ふじお 1953年生まれ。歴史学者、小樽商科大学名誉教授。専門は日本近現代史で、著書に「検証 治安維持法」など。

 ――1925年制定の治安維持法はどんな経緯で作られたのですか。

 「第1次世界大戦末期にロシア革命が起き、ロシアやドイツで帝政が崩壊するなど、社会主義、共産主義が世界的に大きな力を持ち始めると、日本政府もそれらの波及を恐れて22年に『過激社会運動取締法案』を提出しました。ただ、あいまいな条文が拡大解釈されることへの懸念が議会や言論界、法学者から示され、廃案となりました」

 「当時の内務省、司法省が細々と法案作業を続けるなか、23年に関東大震災が起きます。流言飛語の取り締まりなど秩序維持を名目に、緊急勅令として『治安維持令』が出されました。しかし、どさくさ紛れの『治安維持令』は、『安寧秩序』や『流布』などの規定があいまいで、かえって運用しにくく、本格的な治安立法が待望されるようになりました。また、当時の枢密院が、普通選挙と日ソ国交樹立を認める代わりに外から共産主義が入ってくるのを防ぐ手立てを講じろと要求したことも、治安維持法成立の背景にあります」

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 ――この法律の主眼はどこにあったのですか。

 「当初は『国体の変革』や『私有財産制度の否認』を目的として具体的に結社に踏み切った者の処罰が主眼でした。議会での審議では、処罰の対象を『国体の変革』などに絞ったので限定的に運用されるとの理解が一般的でしたが、後に国家統制が高まるとともに『国体』という考えがどんどん膨れ上がりました」

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治安維持法案に反対するデモ行進を始めた団体や政治家らが警官隊と衝突し、多くの人が検挙された。東京・芝御成門付近で撮影されたとみられる=1925年2月

「国体」に金縛り

 ――「国体」はどう受け止められていたのですか。

 「国柄という政治的意味合い…

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