写真・図版
北海道大学大学院工学研究院教授の森傑さん=2024年12月12日午後、札幌市北区、角野貴之撮影

 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で30年。北海道大学大学院で都市計画などを教える森傑さんは、大学生のときに被災し、研究者になってからは東日本大震災の復興事業などにも実践的に関わってきた。人口減少社会における震災と復興、そしてまちづくりのあり方について聞いた。

 ――1995年1月17日の体験を教えてください。

 「大阪大学の3回生で、大阪府北部の池田市に住んでいました。設計図の提出日で午前2時までかかって書きあげ、寝ていました。ゴーという地鳴りのあと、ドーンと縦揺れがきた。本棚をおさえたが、あらゆるものが部屋中にちらばりました。大学に行くと、友人が『阪神高速が倒れとる』。テレビを見たら街が燃えていた。水を入れたポリタンクをバイクに積み、兵庫県尼崎市の実家に向かいました」

 「道路は亀裂が走り、電信柱は傾き、屋根瓦は落ちている。とんでもないことになったなと思いました。実家は一部崩れたが、家族にけがはありませんでした。芦屋市や神戸市の親戚に水や食料を届けようと、車で向かいましたが、普段は30分のところが2時間かかりました。親戚はみな避難所暮らしになりました。大学も研究室もぐちゃぐちゃ。授業が再開する3月まで勉強した記憶はありません」

 ――4回生のとき、被災地で現状調査をしたそうですね。

 「日本建築学会の調査です。学生がペアを組んで約2~3カ月、主に神戸市内のビル類の倒壊度を調べました。6階建てのビルがドミノ倒しになったり、1階部分がぺちゃんこになったりしていて衝撃を受けました」

 「被災した建物の記録は、構造強度や避難計画など災害に強いまちづくりに資する貴重なデータになります。でも被災直後の調査には一部の被災者は複雑な心情があり、『がれきぐらい片付けんかい』とののしられるケースもありました。親戚が避難所暮らしだった僕は、その心情も理解できた。専門家が良かれと思ってやることを、被災者が受け入れられないことがままあるのは、両者の間に心理的・社会的な距離が存在するからです。両方わかる立場で距離感を縮める経験をしたことや、新たな制度や支援が導入されてまちや住民の生活が変わっていく復興過程を間近に見た経験は、その後の研究の糧になりました」

 ――16年後、阪神・淡路を上回る東日本大震災が起きます。

 「発生時は、札幌の大学の研究室にいました。テレビをつけると、津波が沿岸に押し寄せる映像がずっと流れていた。阪神・淡路の記憶がよみがえり、東北の人たちもつらい経験をするのかと複雑な思いでした」

 ――すぐにまとめたのが、死者・行方不明者が230人にのぼった1993年の北海道南西沖地震の奥尻島の情報でした。

 「僕の役目は、復興の局面で…

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