写真・図版
第67回選抜高校野球大会の開会式で阪神大震災の犠牲者へ黙とうを捧げる選手たち=1995年3月25日、阪神甲子園球場
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版

 30年前に発生した阪神・淡路大震災は、2カ月後に迫っていた第67回選抜高校野球大会にも大きな影響を与えた。当時、日本高校野球連盟の事務局長だった田名部和裕さん(78)は「大会はできない」と思ったと振り返る。

 1995年1月17日正午過ぎ。倒壊した阪神高速道路を横目に、田名部さんは兵庫県西宮市の阪神甲子園球場に駆けつけた。幸いに大きな被害は見当たらなかった。「甲子園は無事や」。外野席の左中間に立つ照明塔の奥には、青空に大きな雲が浮かんでいた。

  • 避難目標は「甲子園駅の向こう」 甲子園で観戦中に大地震が起きたら

 同市の自宅で被災した。家族の無事を確認し、隣人の救助に加わった後、バイクを借りて球場へ向かった。倒壊した建物やひび割れた道路を見て「4、5年は大会ができひん」と感じた。

 背中を押したのは、高校野球関係者から聞いた1980年モスクワ五輪ボイコットの裏話だ。政治的な影響で日本選手団は不参加に。日本オリンピック協会(JOC)の柴田勝治委員長(当時)は、選手たちに「オリンピックはない」と告げたことを生涯悔やんだという。

 今回の場合は、牧野直隆・日本高野連会長(当時)が球児に「甲子園はない」と伝えるのと同じだ。「会長にそんな思いをさせていいのか」と奮い立った。

 開幕日は3月25日。準備をするためにも、1カ月前には開催の可否を決断する必要があった。寸断された交通網、選手の宿舎、応援バス、地元の感情など、課題は山積みだった。7イニング制や甲子園以外での開催も検討された。何より復興の邪魔になってはいけない。一日も休まず、各方面との折衝に奔走した。

 2月15日。牧野会長と兵庫県庁を訪れた。窓から神戸の街を眺めていた貝原俊民知事(当時)が言った。「桜の花が咲く頃には、明るいニュースがいるでしょう」。視界が大きく開いた瞬間だった。2日後、日本高野連は大会の開催を発表した。鳴り物応援の禁止、選手は電車で球場入りすることなどを決めた。

 開幕の日。普段はしないことだが、開会式で田名部さんはグラウンドを見渡せる記者席に立った。大会歌「今ありて」が響く。

 ♪今ありて、未来も扉を開く。今ありて、時代も連なり始める

 「この歌詞は、まさにその通りや」。高校野球を未来につなぐ――。いつもと変わらない光景と、聞き慣れたはずの歌が胸に響いた。12日間の大会は観音寺中央(香川)の初優勝で無事に終えた。大会前は「こんな状況でやるのか」と抗議の電話が何度も鳴ったが、いざ始まると、1本もかかってこなかった。

共有