鹿児島市から約450キロ南西の海に浮かぶ徳之島。水平線まで見渡せる丘の上の一軒家で、米田トモエさん(93)は、一日のほとんどをベッドの上で過ごす。
心臓は、本来の5分の1ほどしか機能していない。徳之島徳洲会病院の主治医、田代篤史医師(42)によると、家を訪ねて強心剤を打ち、「何とか動かしている」状態だ。
離島は医療資源が乏しく、高度医療を受けられないこともある。
- 「労働時間減らせば、島民の命が…」 島で唯一の循環器医は葛藤する
米田さんは、72歳のときに心筋梗塞(こうそく)、90歳のときに新型コロナウイルス感染に見舞われ、いずれの時も船やヘリで島外まで搬送された。
それでも、今はテレビで地元名物の闘牛を見たり、「パチンコに行く」と騒いで家族を困らせたりして、笑顔が絶えない。
「ワン(私)は毎日、幸せだ」
その理由は、9人の子どもたちの存在だ。合計特殊出生率が日本一の「子宝の島」で、子どもたちとともに逆境を乗り越えてきた。
病気知らず、産婆の手を借りず出産
米田さんは徳之島で生まれ育ち、21歳のときに「三線(さんしん)が上手なイケメン」と結婚した。夫婦で農業を営み、米、芋、サトウキビを育てた。
病気知らずの頑丈な体が自慢だった。1951~67年、9人の子どもをもうけた。うち6人は、自宅に敷いたゴザの上で、産婆の手を借りずに1人で産んだ。
77年に夫を亡くした後は、畑だけでなく、製糖工場の日雇いでも働いた。子どもたちに口癖のように言った。
「うちにはカネもないし、財産もないから、きょうだいで仲良くしてね」
言いつけを守るように上の子が下の子を世話して、勉強を教え、遊んだ。きょうだいの結束の固さは近所でも評判だった。
子どもたちの自立後、米田さんは1人で暮らし、パチンコに通いながら悠々自適な生活を送った。子や孫たちも、そんな姿をみて安心した。
心筋梗塞、でもカテーテルできず
穏やかな生活が続いていた2003年1月、町営住宅で一人暮らしをしていた米田さんは、息苦しさを感じた。
それまで病院に行ったことはほとんどなかった。子どもたちの看病の申し出も「風邪がうつるから」と断った。
しかし3日後、さらに呼吸が苦しくなり、背中も痛み始めて、「家に来て」と頼まざるを得なかった。
我慢強い母が痛みを訴えるなんてよほどのことだ――。子どもたちが慌てて病院に連れて行くと、心筋梗塞と診断された。すぐに救急車に乗せられ、医療機器が充実した別の病院に搬送された。
ただ、搬送先でも、詰まった心臓の血管を広げるためのカテーテル手術はおこなわれなかった。当時、島内にはカテーテルを扱える常勤医がいなかった。
子どもたちは、「少しでも良…