1945年4月4日、米空母「ハンコック」から発進し、沖縄近海を飛行する6機の米TBMアベンジャー攻撃機=米海軍歴史遺産司令部のホームページから
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 6月23日は、79回目の沖縄「慰霊の日」です。1945年のこの日、沖縄で日本軍の組織的な戦闘が終結したとされます。陸上自衛隊第15旅団(那覇市)がホームページに掲載している、沖縄戦を指揮した第32軍の牛島満司令官の辞世の句を巡り、市民団体などが句の削除を求めています。防衛省防衛研究所戦史研究センターの齋藤達志2等陸佐は「牛島司令官の責任は重いが、当時の日本全体として考えるべき問題でもあった」と指摘します。

 ――沖縄戦の前に、第32軍の編成は大きく変わっています。

 もともと、第32軍のうち、沖縄本島・周辺離島に配備された部隊は3.5個師団の編成でしたが、このうち第9師団が台湾に転用され、2.5個師団編成になりました。第32軍は従来、沖縄に上陸してきた米軍を撃退する作戦を立てていましたが、この攻勢の役割をもった第9師団が転用されたため、作戦を「米軍が中部の読谷・北谷方面に上陸した場合は、戦略持久を策する」としました。

 米軍は45年4月1日に沖縄本島に上陸を始め、すぐに沖縄中部にある飛行場を奪いました。大本営は、米軍が陸上にある飛行場から航空兵力を使えるようになり、防空能力が強化され、さらに海上の米機動部隊が自由に展開する事態を懸念していました。大本営は、飛行場の奪回を第32軍に命じ続けました。

 ――第32軍は主力が攻勢を…

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