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焼香する平塚八五郎さん(手前中央)。一緒に訪れた娘の斉藤恵さん(右)は祖父母の遺影を手にしていた=2024年9月26日、北海道北斗市の七重浜
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 北海道の函館湾で1954(昭和29)年、台風による暴風と高波の中で青函連絡船5隻が沈み、乗客乗員1430人が犠牲になった国内最大の海難「洞爺丸事故」から26日で70年を迎えた。洞爺丸の沈没地点から約700メートル離れた北斗市の七重浜の慰霊碑の前で法要が営まれ、遺族らが祈りを捧げた。

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 札幌市豊平区の平塚八五郎さん(87)は父・円四郎さんと母・カツさんを亡くした。札幌近郊の当別町で米農家をしていた両親は出身地の山形県での法事に出るため洞爺丸に乗った。八五郎さんは事故の翌日にきょうだいたちと函館入りし、両親を捜し続けた。「七重浜では見つかった遺体の特徴が屋外スピーカーから流されていた。それが頼りでした」。約10日後に父が、翌日に母も見つかり、他の人の遺体と一緒に浜で荼毘(だび)に付されるのを見守った。

 酒を飲まず甘党の父は枕元に黒砂糖を置いていて、盗み食いしては怒られた。「だから事故後は青函連絡船に乗ったら必ず黒砂糖を津軽海峡にまいたよ」と八五郎さんは振り返る。一緒に訪れた娘の斉藤恵さん(60)=札幌市厚別区=も「私も何度もまきました。祖父は喜んでいたでしょう」。

 洞爺丸で兄2人とおいを亡くした函館市の松本静江さん(87)は事故前の夕方、それまでの風雨がやみ、急に晴れてきれいな夕日が見えたのを鮮明に覚えている。その後、天気は一変した。「兄たちは事故が起きるとは夢にも思わなかったでしょう」

 神奈川県川崎市の萱場浩之さん(81)の父・堅さんは鉱業会社の札幌支店長だった。事故前の7月、石川県から家族で引っ越した際、洞爺丸に乗った。「父が奮発して個室を予約して良い思い出だったが、その船で帰らぬ人になってしまった」。一周忌で慰霊碑を訪れてからは、「優しかった父がいないことは長い間心の傷になっていた」ため、訪れる気になれなかった。母と妹を連れて再訪を果たしたのは20年ほど前。この日、秋晴れで穏やかな海を見て、「もう訪れられないかもしれないので心に焼き付けたい」と話した。

 船長ら乗組員56人が亡くなった日高丸で犠牲になった料理長の斎藤勇さんを母方の祖父に持つ福井幸治さん(47)=大分市=は大型カーフェリーの1等航海士だ。祖父は第2次世界大戦中から青函連絡船で働き、終戦間際の函館空襲で米軍機の攻撃に遭い、「3日間、海を漂流したそうです」。福井さんは「現在はフェリーの出入り口は浸水しない構造になっていて、出航可否も船長と陸上の運航管理者が相談して決める。(船長の過失とされた)洞爺丸事故の教訓が生かされている」と語った。(野田一郎)

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