野球部の練習に励む菅野恭輔さん=2024年7月2日午後4時4分、石川県輪島市三井町、小崎瑶太撮影

 宮城県富谷市の中学3年生だった菅野(かんの)恭輔さん(16)は今年の元日、テレビの映像に言葉を失った。

 緊急地震速報が鳴り響き、家屋が倒壊していく。能登半島地震の発生を伝えていた。

 3カ月後には石川県輪島市にある日本航空高校石川に入学し、野球に打ち込む毎日を思い描いていた。

 野球を始めたのは幼稚園のころ。小学生だった2017年夏の甲子園、テレビで日本航空石川の試合を目にした。「攻めがイケイケで、その雰囲気がいいなって。他のチームよりも気迫がすごかった」。プレーにあこがれた。

 中学生になり、日本選抜の一員として渡米するほどの選手になった。甲子園をどのチームでめざすか。心は決まっていた。

 その地を地震が襲った。

 学校の敷地内に大きなひびが入り、斜面が崩れたところもあった。グラウンドも周縁部がくぼんだり、フェンスが傾いたりした。当初は水道や電気も途絶えた。

 11年の東日本大震災当時は2歳。富谷市の自宅で被災した。「母に背負われて近くの避難所に行き、夜を明かしたと聞いた。けど、はっきりとは覚えていない」という。

 震災を経験していた母の伸子(しんこ)さん(52)は輪島にある学校に15歳の息子をこのまま入学させていいのか、心配になった。気仙沼市にあった実家は津波で流された。伸子さんの祖母は津波にのまれ、まもなく肺炎で亡くなったという。

 伸子さんは「(入学を)やめたほうがいいんじゃないかと思った」と話す。ただ夫とも話し、息子の気持ちを尊重することにした。そんな両親に菅野さんは伝えた。「地震の影響があっても、僕は日本航空石川に決めました。ここでやらせてください」

 迎えた3月。日本航空石川が…

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