金戒光明寺の山門の内部。天井に龍が描かれている=2024年4月7日、京都市左京区、筒井次郎撮影
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 春の「京都非公開文化財特別公開」(京都古文化保存協会主催、朝日新聞社特別協力)が27日から始まる。披露されるのは寺社など15カ所。今年の干支(えと)にちなみ、龍の天井画がある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ、京都市左京区)の山門と、初めて参加する常照寺(じょうしょうじ、北区)、宝筐院(ほうきょういん、右京区)を紹介する。三つの寺の公開(拝観料大人1千円、中学・高校生500円)はいずれも5月12日まで。(筒井次郎)

金戒光明寺 眺望抜群の山門

 大胆な筆遣いの龍画が、浄土宗大本山・金戒光明寺の山門の天井に描かれている。

 とぐろを巻いた姿の「蟠龍図(ばんりゅうず)」。天井が低いこともあり、大きな姿で迫ってくるようだ。龍は仏法の守護神とされ、火災から守るという意味も込められる。

 龍の真下には、宝冠釈迦如来を中心とした文殊・普賢(ふげん)の三尊像が安置され、その両脇には十六羅漢が8体ずつ並ぶ。橋本周現執事長(68)は「門を通る人に、ここから先は仏教の修行の場であることを示しています」と話す。

 室町時代の応仁の乱で焼失後、幕末の1860年に再建された。62年に幕府から京都守護職に任命された松平容保が同寺を本陣としたが、「都の大部分を見渡せる立地も選んだ理由の一つ」と橋本さん。

 山門の高さは23メートル。小高い丘にあり、眺めがすばらしい。晴れた日には約50キロ離れた大阪のあべのハルカスも望める。

 そもそも寺の歴史は古く、平安末期に浄土宗を開いた法然が、比叡山を下りて最初に草庵(そうあん)を結んだ地に立つ。南北朝時代に後光厳天皇から「金戒」の2字を賜り、それまでの光明寺から名を改めた。

 今年は浄土宗の開宗850年。「お念仏発祥の寺で、お念仏と縁を結んでもらえたら」と橋本さんは語る。

常照寺 「魔性を破す」秘仏の剣

 京都盆地の北端にある鷹峯(たかがみね)には、自然と調和した寺院群がたたずむ。その一つ、日蓮宗の常照寺は江戸初期に開かれた。

 琳派(りんぱ)創始者の一人、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、徳川家康から拝領した地に立つ。僧侶の修行道場(檀林、だんりん)が設けられ、往時には300人超が学んだ。江戸初期の名妓(めいぎ)、吉野太夫が帰依したことでも知られる。山門を寄進し、墓が残っている。

 通常の拝観は本堂や庭園だが、特別公開(5月5日休み)では、二つの秘仏が開帳される。

 その一つ、妙見大菩薩(ぼさつ)像は正面に剣を構える珍しい姿だ。剣は「魔性を破(は)す」もので、修行の妨げとなる邪念を破るという。鎌倉時代の作と伝わり、江戸時代の学僧たちは、この像に向かって進級試験の合格を祈った。

 開帳は毎年6月15日のみ。いつもはやや遠めからの拝観だが、今回は間近で拝める数少ない機会となる。

 三面大黒天像は、正面と左右に顔を持つ。古い様式で、天台宗を開いた最澄作と伝わる。江戸時代の論争「身池(しんち)対論」で勝った僧侶が懐中したことから、「問答勝利大黒天」として伝わる。

 奥田正叡住職(68)は「仏さまの世界に触れ、『いのちに合掌』する心を育ててほしい」と話す。

宝筐院 明治天皇の行在所を移築

 紅葉の名所、嵯峨野の禅寺・宝筐院は、新緑も心地よい。創建は平安後期。室町時代に2代将軍・足利義詮(よしあきら)の菩提(ぼだい)寺となった。寺名は義詮の院号「宝筐院」にちなむ。幕末に廃寺となったが、大正期に復興された。

 きっかけは、義詮の墓と並ぶ楠木正行(まさつら)の墓。正行は楠木正成(まさしげ)の息子で、前身の寺に葬られた。敵だったが人柄を慕った義詮は、自身も傍らに葬るよう頼んだそうだ。

 正行の墓が埋もれているのを惜しんだ明治時代の知事・北垣国道が石碑を建て、その後、実業家らが寺を再興した。

 その際、明治天皇の巡幸で行在所(あんざいしょ)にもなった岐阜県多治見市の屋敷を移築したのが現在の書院。襖絵(ふすまえ)8面の「四季花鳥図」は、季節ごとの草花や鳥が鮮やかに描かれる。

 昭和になり、明治天皇を慕った縁で乃木希典(まれすけ)大将愛用の茶室が市内の料亭から移築された。

 特別公開では、通常拝観の本堂や庭園に加え、書院と茶室も見学できる。

 吹田和光住職(77)は「嵐山の中心から少し離れたここは静かな空間。のんびりゆっくりしてもらえたら」と話す。

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