植松奎二「浮く石」

 「きる」ことは、全裸になることである。きる、というのに裸になるとはいかに、と思うかもしれないが、ここでは服を着る、のではなく、切断するという意味での切る、について書いてみたい。

 詩や映像作品を創作するアーティストの青柳菜摘さんに、「きる」という動詞を手がかりに、日常で感じること、考えてきたことを寄稿してもらいました。

 とは言いつつ、服を脱ぎ捨てて全裸になることの話から始めてみる。銭湯、温泉や、サウナなどの大衆浴場では、見知らぬ人たちが公園や街を歩いているときと同じように、でも全裸になって、思い思いに佇(たたず)んでいる。わたしはその様子を見るのが好きである。とくにお湯につかってのんびりする時間よりも、「外気浴」として、屋外に出て、外気とわたしを遮断する「服」なるものを纏(まと)わず、椅子に座って空気と一体になる時間は、そこでしか経験できない。全裸になって見知らぬ人と一緒に外気浴することは、日頃気にしなければいけない他者とのつながりや社会的立場から自分を「切り離す」ことなのである。

 先日、神楽坂にある旧印刷所跡地の一室で、「新しい朗読」という、朗読をしながら絵を描き続けるイベントを企画した。山下澄人さんのまだ単行本になっていない「わたしハ強ク・歌ウ」を読む、という告知を見て集まった参加者のほとんどは社会人で、ふだん小説は読んでいるが、絵を描くのは子どものころ以来だという人ばかりだった。参加者が持ち回りで朗読していき、ほかの人たちはずっと絵を描き続ける。三十名以上が参加していた。「小説に書かれた内容を描いていくのかな」と思うだろうが、実際はまったくそんなことはない。画材を手に持ち集中しながら、朗読を聴いて物語を追うのは、至難の業だ。絵に集中すればするほど、物語は先に進んでしまうので、あるシーンを描こうと思っても、これは山下さんの小説の特徴のひとつでもあるが、気づくと、登場人物や、語り手さえ変わってしまう。そう思ったら、急に朗読する番が回ってきて、「カタカナのところだけ大声で読んでください」「漢字は読まないでください」など、めちゃくちゃな指示のもとに読むこととなる。

 参加者たちの耳は、物語に必…

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