
2月に98歳となった被爆者、阿部静子さんの人生をたどった本「被爆者 阿部静子は語る―悲しみに苦しみに 生きていてよかった」が完成した。原爆で心身を深く傷つけられ、草創期から被爆者運動に携わってきたその半生がインタビュー形式でつづられている。
阿部さんは現在の広島県海田町出身。16歳で、陸軍将校だった夫の三郎さんと結婚した。被爆時は18歳。爆心地から1.5キロの広島市平塚町(現・中区)で建物疎開の作業中、爆風で吹き飛ばされた。熱線で顔や腕など右半身に大やけどを負った。
顔にはやけどの痕が残った。復員した三郎さんに両親は「別れてやってください」と頼み込んだ。三郎さんは「離婚はできない」と答え、その後も阿部さんに寄り添い続けた。だが、その後も外出すれば「赤鬼が歩いている」と心ない言葉を投げかけられた。本では「うつむいて人と会わないように、傷が見られないように隠れて暮らす毎日でした」と記されている。
1956年3月に被爆者救済を求める国会請願行動に参加したことや、広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と日本原水爆被害者団体協議会の結成に関わったことなど、草創期の被爆者運動についても書かれている。阿部さんは存命の数少ない当事者だ。「被爆者のよりどころができたのは、本当にうれしかったですね」と当時の心境を語っている。
書名に引用された「悲しみに苦しみに」は国会請願行動に参加し、広島に帰る列車の中でしたためた詩の一節だ。曲をつけられ、会合などで歌われるようになった。
「原爆一号」と呼ばれ、被爆者運動の草分けとなった吉川清さん、県被団協の初代代表委員だった藤居平一さんなど、出会った様々な人との思い出も語られている。
日本被団協のノーベル平和賞受賞についても触れ、自身もかつて県被団協の事務所で発表を待った体験を振り返った記述もある。「長年の念願でした」「今までのことを思い出して涙が出ました」と語る一方で「被爆者の心をいかに若い人たちに託すか。年寄りの被爆者も力を奮い起こす。それが責任だと思っています」と書かれている。
入居する高齢者施設で報道各社の取材に応じた阿部さんは「わがままなことですが、この1冊で被爆者の80年の苦節はなかなか伝えられない。書かれていることの裏側を考えて読んでいただければありがたいと思います」と話した。
阿部さんから13回にわたる聞き取りをしたのは、原爆手記の収集、整理に取り組む「ヒロシマ通信」研究会の菊楽忍さんら。終えた直後に日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まり、追加で思いを聞き取ったという。
本では、原爆投下の日の朝に阿部さんが乗った汽車を確かめるため、当時の時刻表にあたるなど細部まで事実の裏付けをしている。本人の語りの背景説明や資料による注釈を入れ、日記や手紙からの引用もある。
あとがきでは、裏付けの重要性について「被爆者の体験を重んじるあまりなのか、記憶の改変を免れていない証言を裏付けもなく取り上げ『伝説』化しているのはメディアの取材者のみならず、継承しようとする人たちにも見られる」として警鐘を鳴らしている。
本はA5判で204ページ。300部を刷った。市販はせず、全国の都道府県立の図書館などに寄贈した。研究会のウェブサイトでも日本語と英語の両方で掲載する予定だ。