元住友金属工業(現日本製鉄)社長・会長で元関西経済連合会会長の新宮康男(しんぐう・やすお)さんが10日、老衰で亡くなった。98歳だった。通夜・葬儀は近親者で営んだ。後日、日本製鉄主催のお別れの会を開く予定。連絡先は同社秘書室(03・6867・2126)、大阪支社総務室(06・6220・5105)。
1948年に東大を卒業し、住友金属工業に入社。86年6月に社長、92年6月から会長を務めた。
96年6月に関西国際空港会社の会長になり、97年5月、関経連会長に就任。99年5月までの任期中は、関西空港2期工事の民間協力や大阪湾ベイエリア開発に尽力した。関西の自治体と経済界が連携する「関西協議会」を設け、今の「関西広域連合」につながった。
プラザ合意後の円高とバブル経済に直面 マージャンは「強引に勝負」
元住友金属工業(現日本製鉄)会長で、関西経済連合会の会長を務めた新宮康男(しんぐうやすお)さんが10日、老衰で亡くなった。98歳だった。経営者としてバブル経済の高揚と崩壊に向き合い、財界では、関西空港の2本目の滑走路を造るために尽力した。今の関西広域連合につながる組織を立ち上げた功績は大きい。
兵庫県出身。1948年に東大法学部を卒業し、住友金属工業に入った。経理畑が長く、経理部長や管理部長などをへて、86年に社長になった。前年のプラザ合意で急激な円高が進み、鉄鋼業は「戦後最悪」と言われた時期。実際、この年度は当時の鉄鋼大手5社とも創業以来の経常赤字となった。その後、バブル経済で業績が急回復すると、住金も「事業の多角化に踊った」とされ、ゴルフ場や半導体などに手を出した。
90年に関西経済同友会の代表幹事に就き、本格的に財界活動を始めた。96年に関西空港の運営会社である関西国際空港会社の会長、97年に関経連の会長になり、関空の2本目の滑走路を建設するため、多くの民間企業に出資を募り、99年7月の着工にこぎつけた。
関経連の会長を務めたのは2…