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御厨貴さん

デモクラシーと戦争 インタビュー編② 御厨貴さん

 明治に芽吹いた日本の政党政治は、両大戦に挟まれた戦間期に、大正デモクラシーを経て二大政党による政権交代の実現を見たところで崩れていった。政党が国民の信頼を失ったのはなぜか。政治学者の御厨貴・東京大学名誉教授(73)に聞き、今日への教訓を探る。

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 ――日本の政党政治は、立憲政友会と立憲民政党の二大政党へ収斂(しゅうれん)した1920~30年代に崩れました。象徴的なのが政友会の総裁だった犬養毅です。国民の政治参加に尽くして憲政の神様と呼ばれましたが、1930年に民政党政権を、補助艦の量を制限するロンドン海軍軍縮条約交渉で米英に妥協したと批判。天皇の軍に対する統帥権を干犯したと攻撃しています。なぜだったのでしょう。

 「政党政治をもり立ててきた政友会は、初の本格的な政党内閣で首相となった原敬が1921年に暗殺された後、変質していました。政権を維持するために軍や官僚と関係を深め、元陸軍大将の田中義一などを幹部として迎えました。中国東北部の旧満州で陸軍が起こした張作霖爆殺事件の責任を取って田中内閣が退陣すると、政権は民政党に移り、総裁の浜口雄幸を首相とする内閣が生まれます」

 「政友会は田中の後継として犬養を総裁に迎えます。犬養も軍縮論者でしたが、かつて小政党を率いた時のように理想を語るよりも、ライバルの民政党内閣を倒さなければと、政友会の対外強硬路線に乗って統帥権干犯を言い出します。そうした言動が軍に対する政党内閣の影響力を弱め、政党政治の基盤を崩すことに気づかず、とにかく政権を我が党にと考える。犬養もそんな政治家の一人になってしまっていた」

 「政権維持のために、とにかく選挙に勝たなきゃというのはかつての安倍晋三首相に、言っていたことがころっと変わるのは今の石破茂首相に似ていますね」

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「憲政の常道」で政争激しく

 ――そもそも明治憲法下では、「神聖不可侵」の天皇による統治を各大臣が支えるという仕組みで、首相はじめ各大臣は天皇に任命されていました。

 「その天皇を明治時代に支え…

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