浜福鶴吟醸工房の試飲コーナーに立つ宮脇米治さん=2024年11月28日午後4時2分、神戸市東灘区、西村宏治撮影

 酒どころ、兵庫・灘。

 そこで働き始めて、はや70年。

 浜福鶴吟醸工房(神戸市東灘区)の案内人、宮脇米治さん(86)はきょうも、国内外のお客さんに酒造りの今昔を伝えている。

 働く場は同じだが、仕事は前半40年とその後の30年で、がらりと変わった。

 きっかけは1995年1月17日の阪神・淡路大震災だ。

伝統の街並みは、地震で消えた

 酒蔵に古い唄が響く。

 ♪鶴がご門に巣をかけますりゃ、亀がお庭で、舞を舞う――。

 酛(もと)すり唄。その昔、酒造りの作業中に歌われた。

来訪者を相手に、酛すり唄を歌って聞かせる宮脇米治さん(右)=2024年11月28日午後3時28分、神戸市東灘区、西村宏治撮影

 2024年11月下旬、蔵の見学コーナーでは、宮脇さんがこの唄をオーストリアから来た団体客に聞かせていた。「昔は作業時間を計るため、時計代わりに歌ったんです」。そんな説明に、驚きと納得の声が上がる。

 宮脇さんの父は、この蔵の酒造りを仕切り、「福鶴」という酒を醸していた「杜氏(とうじ)」だった。

 杜氏も、「蔵人(くらびと)」と呼ばれるつくり手も、かつては農漁村から冬に灘に出て、春には地元へ帰った。宮脇さんの父も、春には兵庫県北部に戻り、稲作と育牛を手がけていた。

 宮脇さんは蔵人としてふた冬ほど酒造りを手伝った後、蔵元に請われて灘に残った。1957(昭和32)年のことだ。その後、瓶詰めや営業などさまざまな仕事をした。

 震災が起きたのは、灘に来て40年がたとうとするころだ。

 朝、歩いて20分ほどの自宅から蔵に駆けつけると、辺りはがれきだらけになっていた。「もう酒造りは、できんのじゃないかと思いました」

 福鶴の蔵があった灘の魚崎郷…

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