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児童に戦争体験を語る高山幸子さん=2024年9月18日、千葉県長生村金田、中野渉撮影

 「いまの平和な日本が長く続くことを願う」。講師の経験談が、小学生たちに考えさせる。9月18日、千葉県長生村立八積小学校であった、地域の人たちによる戦争体験講話。元教師の2人が戦時中の暮らしぶりなどを語ると、5、6年の児童約60人が真剣に耳を傾けた。

 戦時中、現在の白子町の国民学校(小学校)に通っていた高山幸子(ゆきこ)さん(85)は、当時のもんぺ姿で6年生たちに語りかけた。

 父への赤紙(召集令状)が届いたとき、母が顔を真っ青にして、しゃがみ込んだことをよく覚えている。「とても恐ろしい紙。天皇陛下が兵隊を集めるための命令の紙。父はたった1枚のその紙で戦争に行った」

 学校から帰る途中に空襲警報が鳴ると、麦畑に潜った。いつも防空頭巾をかぶり、小さくなってぶるぶる震えた。「おっかねえよ、殺されちゃうよ、死んじゃうよ。みんなで大変な騒ぎだった。いまでも忘れられない」

 高山さんは思う。「戦争は人と人との殺し合い、国と国との滅ぼし合い」。飛行場を爆撃するため家の上を敵機が飛んだ。落ち着いてご飯を食べたり、勉強したり、寝たりできなかった。

 「みなさんは幸せ。お互い思いやりの心を持てば戦争は起こらない」

 6年生の森敦斗さん(11)は「平和が一番いいと思った」と話した。

 5年生に話をした斉藤幸子(さちこ)さん(90)は、風呂敷をランドセルのように背負って裸足で国民学校に通っていたという。

 1945年3月の東京大空襲では、東京から集団疎開で来ていた子どもたちが、卒業式などのために一時的に自宅に帰り、多くが亡くなった。

 「東京の方角は、夕焼け色になっていた」

 農家だったが、米不足のため、白米に大麦やサツマイモを混ぜて食べたとも。すいとんも口にした。「どうして米が不足したのか。取れ高がいまより少なく、多くを強制的に供出させられた」

 斉藤さんは最後に言った。「ロシアとウクライナを見ても分かるように、戦争は多くの人々の命を奪い、多くの建物を破壊する。起こしてはいけないこと」

 今回の戦争体験講話は、退職した女性教師でつくるボランティア組織「房総(ふさ)の会」長生支部の傘下である「ピーススタッフ長生」が講師を派遣した。現在の会員は16人。当初5人いた語り部は、いまは2人だけになった。(中野渉)

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