元日の激しい揺れは、能登半島の高校球児から平らなグラウンドや思い出の詰まったグラブを奪った。それでも白球を追う選手たち。能登半島地震からまもなく半年になる。(小崎瑶太)
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亀裂の走るグラウンドから、夕日に照らされた青い海が見える。
石川県珠洲市にある県立飯田高校野球部の新川(にいかわ)純冬(じゅんと)さん(2年)=珠洲市三崎町寺家=は、海の間近で育った。
自宅前でイルカと一緒に泳ぎ、波音を聞きながら寝た。その海が、自宅を、まちをのみ込むなんて思ってもみなかった。
小学1年で野球を始めた。地元の学童チームは人数が足りなくなり、複数のチームを転々とした。小学5年で車で片道30分の能登町のチームに。母の智子さん(51)の目には「ずっと一人で苦労してきた」と映る。
人口1万1千の珠洲市は高齢化率が50%超。14歳以下の人口はこの20年で6割以上減った。「僕らの世代から一気に減ってしまった」と感じる。
地元・三崎中学校の野球部も9人集まるかどうかの小所帯だった。それでも野球を続けてきた。
今年の元日、家族4人で車で買い物に出かけた先で、経験したことのない揺れに襲われた。
辺りの家屋は崩れ、電柱も倒れて道をふさいだ。ようやく見つけた小道を抜けて高校に避難。数日後、海辺に立つ自宅に帰り、言葉を失った。
一帯に津波が押し寄せた後だった。木造2階建ての1階に車が突っ込んでいた。近くの駐車場から流されてきたようだ。
家の中のものが砂浜に流されていた。能登町のチームに一人で向かうとき手にしていた思い出のグラブは見当たらない。
「おかん。もう野球できなくなるんか?」。思わず母にそう漏らした。
避難所となった高校で2週間…