長島の海辺
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瀬戸内海の島のハンセン病療養所で過ごしたトシオさんには、思い浮かべるたびに今も涙が出るという仲間がいます。仲間たちの悲劇を招いた原因を明らかにしたいと、裁判に加わりました。

 俺は「新良田高校」を卒業後、長島愛生園の一般舎で生活しながら治療を受けていました。「おかしい」となんぼ思うても、らい予防法による国の隔離政策はまだ続いていました。長島はまだ孤島のままで、対岸の陸地を結ぶ邑久長島大橋が開通したのはその約10年後の1988(昭和63)年のことです。

 園内での生活は同じことの繰り返しで、退屈でした。将棋、囲碁、絵画、俳句、短歌のサークルとかありました。俺はマージャンとかをやっていました。孤島で、思いついたら自由にまちに出かけられるわけでもありません。夕飯を食べ終わると、特にすることがありません。そんな時は年上の「ショウちゃん」に誘われて、よく海辺で一緒に釣りをしていました。ショウちゃんも朝鮮人やった。

 長島の海辺には「一本松」という釣りの名所があって、ふたり並んで釣り糸を垂れながら星空を眺めていると、深いため息が出てきます。「トシ、やることないのう」って漏らすショウちゃんの顔を見ると、泣いているようやった。ショウちゃんは病気の後遺症で、手がうまく動きません。「トシ、えさをつけてくれ」と頼まれ、代わりにえさを釣り針につけました。魚が釣れると、「トシ、うろこを落とせ」って言われて、さばいてしょうゆ炊きにして一緒に夜食にして食べました。

 俺は30代になると、大阪の家族のもとと長島を行き来する「二重生活」をしていました。大阪にいる時は「主夫」をしていました。妻は大阪の病院で働き、俺は保育所への子どもの送り迎えや掃除、洗濯、食事の準備をしていました。月に1度は治療と薬をもらうために長島に戻っていました。

 島に帰ると、ショウちゃんは「トシ、よう帰って来たのう」と歓迎してくれます。外での生活の様子を話すと、「トシ、社会に出られるからいいのう」とよく言われました。ショウちゃんもきっと長島から出て外で暮らしたいと願っていたんやと思います。

 随分とかわいがってもらったショウちゃんが「自殺した」と聞いた時は、ほんまにショックでした。妻のいる大阪にしばらくいて、久しぶりに長島に戻った時のことです。

 俺の場合、仕事をしている妻…

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