第2次世界大戦の末期、満州へ侵攻した旧ソ連軍の出撃拠点の全容が分かってきた。そこから浮かび上がる「赤いナポレオン」の戦術とは。独ソ戦の分岐点となった「スターリングラード(現ボルゴグラード)攻防戦」との相似とは。ソ連の軍事史に詳しく、著書「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」などで知られる歴史家の大木毅さんに聞いた。
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――独ソ戦を戦ったソ連からみて、衛星国家のモンゴルはどんな役割を果たしたと言えるでしょうか?
当時の極東ソ連軍は、日本の関東軍に対してにらみを利かせると同時に、対独戦の予備兵力のプールや編成・訓練集結地としての機能を担ったと言えます。その一環として、モンゴル領内の軍事施設も使われたのだと思います。
――モンゴル東部の巨大基地に駐屯していた元ソ連兵に聞くと、「新兵訓練をそこでやって欧州戦線へ送り込んでいた」と話していました。
ソ連は、独ソ戦のさなかでも極東の備えを崩しませんでした。部隊そのものは動かさずに、質の高い要員のみを抜いて欧州へ送るなどして、日本軍が期待したようには兵力を減らさなかった。その結果、日本は1941年夏にソ連侵攻を断念しています。そういった極東ソ連軍の運用に、モンゴルの巨大陣地も当然組み込まれていたわけです。
そして大戦末期には、極東ソ連が対日参戦の策源地になりました。満州の東北正面は日ソともに要塞(ようさい)で固めていて、そう簡単には突破できない。それならば東と東北正面では関東軍を拘束する作戦を展開し、突破・急進作戦は西側のモンゴル方面から仕掛けることにした。これが、ソ連が第2次大戦で完成させた「作戦術」の姿と言えます。
――作戦術とは、どういうものなのでしょうか?
西側軍事筋から「赤いナポレ…