長島愛生園内を通る道路わきに建つ「一朗道」の石碑

ハンセン病療養所の少年舎で過ごしたトシオさんは病気が治癒し、一時島を離れることになりました。根深い偏見と差別にさらされ、きつい仕事を転々とする中、安らぎになったのは島に残る仲間でした。

 瀬戸内海にある長島(岡山県瀬戸内市)の南側の海辺からは、小豆島が見えます。南側には小高い崖があり、崖を貫く「一朗(いちろう)道」と呼ばれる坂道があります。

 長島愛生園は、ハンセン病の患者を隔離する第1号の国立療養所として1930(昭和5)年にできました。開設間もないころは人手不足を補うため、入所者が開墾や施設整備の園内作業に従事させられていました。

 この坂道もそんな場所でしょう。38(昭和13)年、入所者の久保田一朗(本名・具奉守)さんが、少年たちが毎日3度の食事を配食場から山越えで苦労して運ぶ姿を目にして、少しでも楽になるようにと仲間と崖を切り開いて道を造ったそうです。いまのように重機はなく、スコップなどを使った人海戦術の作業でした。

 本来、重労働はハンセン病には「禁物」です。道の完成後、一朗さんは後遺症である神経痛に襲われました。あまりの激痛に耐えられなかったんでしょう。間もなく自ら命を絶ったと伝えられています。49歳でした。園内にはその功績をしのび、「一朗道」と彫られた石碑が建てられています。

 一朗さんのことを知った時、俺は少しはましな時代に療養所におったんかなあと思いました。俺が収容された頃にはハンセン病は薬で治癒できるようになっていました。もし俺が一朗さんと同じような戦前に園に入れられていたら、どないなってたんやろう。病気の痛みや重労働に耐えられたんやろうかと、考えさせられます。

 小学3年で入所した時、同じ学年の同級生は俺をいれて5人いました。やがて医者の判断で後遺症の状況に応じて「軽快退所」できるようになり、途中で同級生がいなくなりました。中学3年になり、まだ園に残っていた同級生から「俺らも島から出て行こう」と毎日のように言われました。それで軽快退所に向けて、何度か検査を受けて最後にはお尻の肉を深く取られました。その傷痕は今も残っています。

 中学3年の2学期まで長島愛生園にいて、ようやく出られることになり、山口から大阪に出ていた母親のもとに帰りました。そして3年の3学期だけ大阪市内の中学校に通いました。もちろん病気のことや療養所にいたことは学校では絶対に話しません。「岡山から転校してきた」と自己紹介しました。

 母親やきょうだいと一緒に住…

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