東京・神田神保町の美學校(びがっこう)に通っていた頃、舞台にも惹(ひ)かれていました。
高校時代、演劇部にいてアングラ演劇への想(おも)いが募っていたのですが、松江にいてはアングラ演劇に触れることが難しかったのです。そんな中、英国、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの「真夏の夜の夢」の劇場中継にも同じ前衛の気配を嗅ぎ取ったものでした。
折しも、松江市出身の演出家、出口典雄さんがシェイクスピアを題材に演技塾を開催。この機を逃すまいと飛び込みました。気持ちよりも台詞(せりふ)の一音一音を大事にする、そんな稽古は、美学校の教えとも重なっていました。
小劇場「渋谷ジァン・ジァン」で初舞台に立ったのは、1年後の1975年のことです。
出口さんが旗揚げした劇団シェイクスピア・シアターは、若い世代が普段着で演じる「ジーパン・シェイクスピア」として注目されました。僕はほぼ毎日を、舞台に立っているか、稽古をしているか、という日々を何年も過ごしました。駆け出しにとって恵まれた環境でした。
常打ちにしていたジァン・ジァンは「アングラの聖地」で、ミュージシャンも数多く出演していました。デビューしたばかりの山下達郎さんや大貫妙子さん、矢野顕子さんらと楽屋ですれ違うこともあり、刺激的な日々でした。
ただ僕の歩みは、ある鬼才へと、引き寄せられます。サーカスみたいに、わくわくさせられる劇空間。そんなイメージの「状況劇場」を主宰する劇作家、唐十郎さんです。
代名詞となる拠点は神社や公園に現れる紅テントです。李麗仙(りれいせん)さんや根津甚八(ねづじんぱち)さん、小林薫さん、といったきら星のような役者たちが躍動していて、僕は幾度も足を運びました。
唐十郎さんは「アングラ演劇の旗手」と呼ばれ、カリスマでした。若かった僕の憧れであり、後の師匠です。演劇界だけの存在ではなく、1983年には「佐川君からの手紙」で芥川賞も受けた鬼才です。
そして20代半ばに差し掛かった僕は、新たな展開を求め、シェイクスピア・シアターを去ります。
「本当に、それでいいのか?!」
折しも状況劇場が研究生を募…