写真・図版
東京のシニアハウスと長野・軽井沢の自宅との2拠点生活。「北陸新幹線が満員で、1時間立ちっぱなしのこともあるの」=東京都内、杜宇萱撮影

シンデレラの夢、いつしか消えた

 《1960年、津田塾大へ。初めて親元を離れ、寮生活に》

 津田塾大には当時、英文学科と数学科しかなかった。英文科で(「チャタレイ夫人の恋人」などを著した)D・H・ロレンスやバージニア・ウルフなど1920年代のイギリス小説を専攻し、修士課程と博士課程を経て、大学教員になる道を選びました。当時は教員になれば、9年分の奨学金の返済が免除されたからです。

 当時の津田塾大には、地方出の優秀な女性が多くいました。卒業後、地元に帰って教師になった人もいましたが、大部分は、結婚と出産を当然のこととされて、仕事をあきらめて「良妻賢母」になる人が多かったですね。

 今では多くの女性が進学や就職で地方から東京に出てきて、そのまま東京にとどまります。地方が衰退する理由の一つは、今もって若い女性たちを生かし切れない、地方の家父長制的な性別役割分業の風土にあるんじゃないかと思います。

【初回から読む】田嶋陽子さん、母からの抑圧と研究の原点

 英文学・女性学研究者の田嶋陽子さんの半生を振り返る連載「わたしが生きたフェミニズム」。全4回の2回目です。

 《大学院を出た後の70年、奨学金で英国ケンブリッジへ語学留学。ある恋愛を経験する》

 同じクラスで3歳年下のルイ。ひょうきんな人気者でした。クリスマスとイースターに、ベルギーの実家に招かれました。そこはまさにお城そのもの。伯爵家の次男で、お母さんはイタリア貴族の出身でした。

 ルイの母は30歳も年が離れた夫に代わって村長の役割も務め、村人の面倒も見ているので疲れ切っていました。ルイの3人の姉たちは、カトリックの厳格な教えを守って家事労働と子育てにいそしみ、どこかくたびれていました。

 彼に連れられて行ったブリュッセルの社交界はとてもまぶしかったけれど、私はペンと机の書生生活に戻りたかった。心の中にくすぶり続けていたシンデレラコンプレックスはいつの間にか消えていました。5年待つ、とルイは言ってくれたけど。

抑圧してくる恋人、母そのものだった

 《英国から帰国後の1972年、法政大に専任講師として着任し、76年には教授に》

 第一教養部(現在の国際文化学部の前身)で英語を担当しました。ただ、フェミニズムや女性学の枠組みはまだ発展途上。「女性はなぜ自由に生きることを許されないのか」と悩みながら論文を書いていった経験は、後にテレビの場で議論するとき、理論の基盤になりました。

 そんな中、再び英国へ。79年、サバティカル(長期休暇)を取得し、ロンドン大に留学しました。

 《5歳年上のバティック(ろうけつ染め)アーティスト、ノエルと出会い、同居を始める》

 自立した男性でした。炊事洗…

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