東京大空襲の火災跡が残る賛育会病院旧本館の部屋=2024年12月12日、東京都墨田区、小林一茂撮影

 ヘルメットをつけた作業員が、重機を使って壁を壊していく。東京の下町・JR錦糸町駅近くにある賛育会病院(東京都墨田区)。病棟として長年使われてきた旧本館の解体工事が現在進んでいる。

 地上4階、1930年建築のコンクリートづくり。その屋上階にある物置小屋のような一室は、出入りする人もおらず、古参の職員の間でこう伝えられていた。

 「東京大空襲のすすが残る部屋」

貧しい母子のため吉野作造ら東大YMCAが設立

 社会福祉法人賛育会は、東京帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)の有志により1918年に設立された団体が源流だ。発起人には同大教授だった思想家・吉野作造らが名を連ねる。貧困層の母子に医療・福祉を提供することをめざし、翌19年に当時珍しい庶民向けの産院を開設した。

 東京朝日新聞は18年3月25日付の朝刊で、「貧しい産婦を保護」と賛育会の発足を報じている。

 23年の関東大震災で焼失したが、バラックで再出発。27年には約1キロ南の錦糸病院も継承した。近くの通りは、大きなおなかを抱えた女性たちが行き交うことから「タヌキ通り」と呼ばれていた、と賛育会の70年史に記されている。

 しかし、45年3月10日未明の東京大空襲で、下町一帯は大火災に襲われ、両病院も焼け落ちた。コンクリート造りの賛育会病院の建物だけは残り、46年6月から診療を再開した。

1948年ごろの賛育会病院。1、2階のみが使われていたという。屋上階の一段高く突き出た部分が、東京大空襲のすすが残る一室=賛育会提供

 戦後80年。老朽化が進み、この春までの建物解体が決まる。建て替えを担当する病院職員・遠矢充宏さんは「東京大空襲のすす」の真偽が気になり、昨年、東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)に電話をかけた。「このまま壊していいものでしょうか」

80年間「奇跡的」に維持された爪痕

 センター学芸員の千地健太さ…

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