疎開していた子どもたちと特攻隊員を写した写真。浅間温泉で撮影された=きむらけんさん提供

 「私は時枝さんが大好きで大好きでした」

 鉛筆でつづられた文字は、幼さを感じさせる。79年前、当時11歳の子どもが書いた手紙だ。太平洋戦争で亡くなった特攻隊員の遺品などを保管する知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)に今、そのレプリカが展示されている。

 送り主は「長野県広丘村郷福寺 高島千恵子」とある。その人はいま、相模原市に住んでいる。

 「記憶がね……。手紙のことは、あまり覚えていないの」

 石井(旧姓・高島)千恵子さん(90)はそう話した。

 千恵子さんは1944年、東京都世田谷区の代沢国民学校(現・代沢小学校)の児童で、学童集団疎開で長野県に向かった。引率の先生は「武器ではなく鉛筆で戦う」として、子どもたちに「鉛筆部隊」という名称を付けた。

 最初の滞在先は本郷村(現・松本市)浅間温泉の「千代の湯」。同じ宿に45年3月、6人の特攻隊員が滞在した。隊員が戦地に向かう直前まで、子どもたちと交流を持っていた。

今も覚えている隊員たちの名前

 「今西さんに、出戸さん、大…

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