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伊賀上野地震の被害を記録した報告書。「大地震」の字が見える=奈良大学撮影、提供
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 幕末の1854年、奈良、三重、滋賀、京都の府県境を震源として発生した「伊賀上野地震」の被害を生々しく記した古文書が、奈良県山添村の寺で見つかった。調査していた奈良大学が発表した。地震が少ないとされる奈良でも大きな被害が出た震災の記録として注目される。

 伊賀上野地震は、ペリー来航翌年の1854(嘉永7)年6月15日に起きた。マグニチュード7・25、震度6~7クラスと推定され、約1300人の死者が出た。奈良県でも家屋700~800棟が全壊し、約280人が死亡した。

 この年から翌55(安政2)年にかけて、全国では東海地震や南海地震、そして「安政の大地震」と呼ばれる江戸直下地震が連続して発生。伊賀上野地震はその始まりとしても注目されている。

 奈良大学の文学部史学科は2015年から山添村教育委員会と協力。教員や学生が毎年夏と春に同村に入り、古文書の調査を続けている。今年9月、同村の葛尾観音寺に伝わる文書369件を調査したところ、伊賀上野地震の際に、同寺から本寺の仁和寺(京都市右京区)に送られた被害報告の下書きが見つかった。

 報告の日付は8月5日。6月14日の夜半に本震が発生した後、20日ごろまでやむことなく余震が続き、8月になっても1日7~8回は揺れるため、当惑に取り紛れて報告が遅れたと弁解している。

 寺では本堂や庫裏の屋根瓦が残らず落ち、建具や柱の大半も裂けたり、傾いたりしたが、本尊はすぐに運び出して無事だった。境内では石垣が上にあった門や長屋ごと、幅十数メートルにわたって崩落。寺は地域住民に片付けの手伝いを求めたが、みな被災しており、誰も来なかったという。

 調査した村上紀夫教授(日本文化史)は「被災者自身によるリアルな記録。役人がまとめた被害記録にはない生々しさがあり、我々の防災意識向上にも役立つ」と指摘。そして「こうした地域の記憶を伝える貴重な史料が、旧家や寺社の廃絶で失われつつあり、調査が急務であることも知ってほしい」と話している。

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