《仕事一筋で家族を支え、いつも優しい笑顔で見守ってくれた父。その突然の出来事に、悲しみ、絶望感に打ちひしがれました》
昨年の能登半島地震で父を失った小林由紀子さん(53)=石川県穴水町=が、声を詰まらせながら、用意した言葉を読み上げた。1日午後、同県輪島市の日本航空学園能登空港キャンパス体育館で営まれた県主催の犠牲者追悼式に出席し、遺族代表としてマイクの前に立った。
昨年の元日。由紀子さんは父の洋一さん(当時82)らが暮らす町内の実家にいた。
新年を祝う夕食の支度をしていた午後4時6分、最初の揺れで、慌てて外へ出た。
4分後のさらに大きな揺れで実家は崩れ、洋一さんががれきの下敷きになった。
洋一さんは、1890(明治23)年に呉服屋として創業した衣料品店の4代目。店の名前は「バル・こばやし」。店舗は自宅近くの穴水商店街にあった。
4年ほど前に次女の由紀子さん夫妻に経営を引き継いだ後も、店に顔を出し、客と話をするのが日課だった。
「お店が大好きで、とにかくお客さんが大事で。頭の中はいつもお店のこと」と由紀子さんは振り返る。
店の前にベンチがあり、店内にはいくつもイスがあった。洋一さんは常連客に「こっち来てちょっと休まんかいね」と声をかけていた。
買い物客だけでなくバスを待つ人とも、おしゃべりしながらお茶を飲んだり、おにぎりを食べたり。洋一さんが築いたバル・こばやしは、気楽にひと息つける場所だった。
地震によって、店は壊れ、由紀子さん夫妻の自宅も損壊し、一時は富山県氷見市に避難した。
また地震が来たらどうなるのか。過疎が進む町で店を再開しても、お客さんが来てくれるのか。不安ばかりがよぎった。
《父を亡くし、父が守り続けてきた大切な店を失った現実に、心が何度も折れそうになりました。「もうここで終わりにしていいのかな」と、自分に言い聞かせ、あきらめる理由を探す毎日でした》
それでも、小中高校に入学する子どもたちが新しい制服を求める春を前に、「制服の採寸だけはしよう」という夫の言葉に押され、準備を始めた。「この仕事を続けたい」という気持ちが確かになっていった。
「父を安心させてあげたいなという思いがありました」と由紀子さんは話す。
《支えてくれたのは、地域の方からの温かい言葉でした。「あんた、大丈夫やったか、無理せんでいいよ」との言葉になぐさめられ、「まっとるからね」の言葉に背中を押されました。私たちの店は、この地域に支えられてここまで来ることができたんだと、少しずつ、前向きな気持ちになることができました》
由紀子さん夫妻は7月、商店街で開かれた復興イベントのテントで衣料品を販売。それから毎月出店し、10月には仮設商店街で営業を再開した。
訪れる常連客らが洋一さんとの思い出を語り、「やさしい人やった」「寂しくなったね」と声をかけてくれる。
お客さんのニーズをくみ取って、見やすいように陳列する。おしゃべりが弾む店になるように、さっとイスを差し出す――。
そんな父の教えや姿を思い返しながら、店を続けている。そして、心の中で呼びかける。「見守っていてください」
1年前のことを思い出すのはいまもつらい。ただこの間、支えてくれた人たちに感謝の気持ちとともに、「私は元気です」と伝えたくて、遺族代表を引き受けた。
《半歩ずつですが、夫と共に、この店を守り抜き、地域の皆さんと共に歩んでいく。それが亡くなった父への感謝であり、地域の皆さんへの恩返しであると考えています》
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地震後の昨年4月、衣料品店「バル・こばやし」の建物が取り壊される場面に、記者は偶然出合いました。