太平洋戦争末期、沖縄や奄美の島々を米軍機が攻撃した「10・10空襲」は、米軍による日本への初めての本格的無差別爆撃で、翌年の沖縄戦や日本本土空襲の先駆けとなった。
沖縄県史によると、44年10月10日、米空母機動部隊の艦載機や爆撃機など延べ1396機が奄美大島以南の南西諸島各地を攻撃。第1~3次攻撃は嘉手納や伊江島などの日本軍飛行場や那覇の港湾施設を標的としたが、第4、5次攻撃は那覇市中心部を集中的に襲い、大量の爆弾や焼夷(しょうい)弾が市街地に投下された。
日本軍はほぼ有効な反撃ができず、軍民668人が犠牲になった。那覇市街地は約9割が焼失し、約5万人が焼け出された。
沖縄県内ではこの空襲で米軍上陸への危機感が強まり、陣地建設など戦闘準備への住民・学徒の動員が強化された。沖縄県史には「十・十空襲で人々の意識が変わり始めた」との住民証言を紹介している。
米軍は45年3月26日に沖縄に上陸し、約3カ月にわたる沖縄戦で日米の軍民計約20万人が犠牲になる。また3月10日にはB29爆撃機の大編隊による東京大空襲により約10万人が亡くなるなど、都市部への無差別攻撃が本格化していく。
障害者は戦場をどう逃げたのか 追いかける脳性まひの研究者
太平洋戦争末期の1944年10月10日、米軍の攻撃により沖縄などで600人超が犠牲になった「10・10空襲」。この日を境に沖縄の戦時体制は強まり、住民の避難や動員などが進んでいく。この時、障害者はどう行動したのか。証言を集める若手研究者がいる。
生まれつき耳が聞こえない女性は10・10空襲の後、父に手を引かれて山中の壕(ごう)に避難した。翌45年4月、沖縄本島に米軍が上陸し、6月末まで激しい地上戦が繰り広げられる。長期にわたり山中に隠れる住民に混じり、食料を奪い暴力をふるう日本兵がいた。一緒にいた足が不自由な友人が、突然、いなくなった。
女性が家族に尋ねると、「毒薬を飲んで死んだようだ」と言われたという。
自らも障害をもつ若手研究者にとって、沖縄戦での障害者の体験は過去の話ではありません。社会は変わったのか。記事の末尾でも、空襲を受けた那覇市中心部の当時と現在の様子を比較しています。
足が不自由な那覇市の男性は…