写真・図版
読売新聞を率いた渡辺恒雄氏=2011年撮影

 政治をも左右する既存メディア界の象徴のように言われた読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が98歳で死去した。その虚像と実像をどう見極めるか。明治学院大名誉教授、放送大客員教授で政治学者(日本政治思想史)の原武史さんに、渡辺氏とその時代を振り返るうえで重要なポイントについて聞いた。

共産党「東大細胞」活動と反共への転身

 ――渡辺氏の実像と、世間に流布するイメージには落差がある気がします

 人柄や逸話の紹介が先行し、渡辺氏の果たした歴史的役割が掘り下げられていないように思います。「渡邉恒雄回顧録」(中公文庫)や安井浩一郎氏「独占告白 渡辺恒雄」(新潮社)、魚住昭氏「渡邉恒雄 メディアと権力」(講談社文庫)などの本人の発言や記録に、状況証拠や印象論を加えて振り返るだけでも重要なポイントがいくつかあります。

 渡辺氏は1945年の終戦直前に約1カ月の従軍経験があり、東大生だったその年のうちに天皇制打倒を目指して日本共産党への入党を志願し、翌年党員となります。このとき共産党を支持する学生らの「東大細胞」キャップを務めた経験は、後に新聞社内で権力を握り、政界やメディア業界、スポーツ界などで権勢をふるう原体験となりました。

 47年の二・一ゼネスト中止後、渡辺氏は共産党中央や東大細胞の指導部を批判します。革命のために飢餓をつくりだしてもかまわないという党の方針は道徳軽視だと疑問をもち、党の規律より個人の主体性が優先されるべきだと考えたのです。それまでの東大細胞のリーダーに取って代わった渡辺氏は、党から独立した組織をつくろうとして批判を浴び、除名されます。

 渡辺氏は戦争中にドイツの哲学者カントに傾倒し、道徳や人間性を尊重する立場から軍隊や天皇への絶対服従を強いる体質に拒否感を抱いた。その立場は戦後も変わらず、共産党の体質に強く反発したのです。

 ――共産党除名後の渡辺氏は「反共」に転じます。党員経験の影響をどう見ればよいでしょうか

 東大細胞時代の渡辺氏は、後に戦後日本の各界を代表するリーダーとなる友人知人と出会っています。例えば、社会主義の理論家である安東仁兵衛、後に共産党副委員長となる上田耕一郎、堤清二(後にセゾングループ代表)、氏家斉一郎(後に日本テレビ会長)。上田の弟で、後に共産党議長となる不破哲三氏とも当時出会っているはずですが、ほとんど語っていません。

 一方で、渡辺氏は大学当局に近い学生団体をつくり、アンチ共産党の政治運動に身を投じます。共産党の東大細胞時代からアンチ共産党の時代に至るまで「ごく少数が多数を動かす」権力ゲームに明け暮れた経験は、後に読売新聞社に入社してからの仕事ぶりにも色濃く反映され、少数の仲間により集団全体を牛耳る手法を駆使して社内で地位を得ていきます。渡辺氏の後を追うかたちで読売新聞に入った氏家氏も、そうした学生団体以来の少数の仲間の一人です。

共産党員と新聞記者、「前衛」が共通点

 ――渡辺氏は、自他ともに認める「筆が立つ」記者だったようですね

 渡辺氏が最初に配属された編集部で名を挙げた記事の一つにも共産党が関係しています。52年、東京・奥多摩で活動する共産党の武装組織・山村工作隊に潜入した体験を記した特ダネ記事です。

 幹部がレッド・パージにより…

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