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 かつて多くのイカがとれた飛島(山形県酒田市)にはイカの肝で作る独自の魚醬(ぎょしょう)文化が伝わるが、作る人が減って存続の瀬戸際にある。江戸時代から続く魚醬文化が危機に瀕(ひん)する中、製法を記録して後世に伝える本も出版された。

 飛島の魚醬文化は、江戸時代に能登の魚醬「いしる」などの製法が北前船により伝わったのが始まりとされる。飛島ではイカの魚醬はもっぱら塩辛作りに使い、調味料としてはあまり使わない。昔は塩辛を米と物々交換して暮らし、いまも特産品として売っている。

 昔は多くの家で魚醬を作っていたが、いまは人口わずか146人(7月末現在)。高齢化率も8割を超え、作り手は数人になってしまった。

 その一人、漁師の長浜修さん(86)を訪ねた。海に面した自宅前にある小屋の中に、魚醬を仕込んだ四つのたるが並ぶ。1年に一つずつ仕込むのだという。長浜さんは飛島独自の魚醬を「つゆ」と呼んでいる。

 イカの肝をたるの中で3~4年間発酵させると、イカの香りとうまみが凝縮された魚醬が出来上がる。長浜さんはこの魚醬を使って塩辛を作ってきた。

 飛島の塩辛は、一般的な塩辛とは作り方も見た目も大きく違う。

 イカの塩辛は通常、生のイカの身と肝を混ぜて熟成させる。一方、飛島ではイカの魚醬と塩漬けを別々に作り、最後にあわせて完成させる。

 ただ、近年は島でイカがあまりとれない。そのため長浜さんは主に自ら取ったサザエで塩辛を作っている。

 「昔は沖に出ればいい漁場がありイカがバサバサ揚がったが、いなくなってしまった」と嘆く長浜さん。体力的な衰えもあり、「サザエ漁ができなくなれば、つゆ作りもやめる。もう時間の問題だ」とつぶやく。

 飛島のサザエの塩辛は酒田市や遊佐町の鮮魚店で時折見かける。記者はその一つを買い求め、味わってみた。

 ふたを開けると、褐色の魚醬の中にサザエが漬かっている。魚醬をなめてみると、かなりのしょっぱさに続いて、凝縮されたイカのうまみや甘みを感じた。サザエはかなり塩辛いが、イカのうまみが染みていて、クセになりそうな味だった。

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 飛島の魚醬文化がゆらぐ中で今年春、その由来や製法を記録した本「研究者、魚醬と出会う。」(文学通信、A5判カラー、224ページ)が刊行された。

 本は、研究者らが飛島の魚醬を取りまく人や文化に迫った学術ルポ。作り手から聞き取り調査したほか、魚醬の成分も科学的に分析し、しょっつる(秋田)やナンプラー(タイ)など国内外の魚醬とも比較した。

 きっかけは、弥生時代の食文化の研究で魚醬に興味を持った山形大の白石哲也准教授(41)=考古学=が、飛島にも魚醬があると知ったことだ。

 山形大の教員仲間や県水産研究所(鶴岡市)の研究員らに声を掛け、2022、23年に現地調査を行い、島民らに魚醬と塩辛の製法を詳しく聞き取った。

 白石准教授によると、飛島の魚醬はいまも家庭内製造を続けている点が大変貴重で、塩辛も一般的な塩辛とは別物な点で独自性が高いという。

 調査を通じて飛島の魚醬が途絶えつつあるとも実感し、こう考えた。

 「飛島の魚醬の製法や人との関わりを詳しく記録することで、魚醬を将来に残したい」

 ただ、製法を記録するだけでは足りない。本を通じて広く一般に知ってもらえれば、飛島の魚醬に新たな価値が見いだされ、次世代につながるかもしれない――。そう考え、カラー写真をふんだんに使い、魚醬を使った料理のレシピも紹介するなど、研究者以外の人にも読みやすくした。

 白石准教授によると、今後は能登の魚醬文化を調べて本にまとめ、アジアや欧州の魚醬も調査する予定だ。「人と魚醬との関わりを明らかにしたい」(清水康志)

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