江戸期に旧角渕村(現群馬県玉村町)の名主を務めた旧家・関根家に伝わる膨大な古文書から、江戸から明治にかけて約160年にわたる地域の歴史をつづった「関根健一家文書要覧」が刊行された。飢饉(ききん)に苦しむ状況や、旅を楽しむ様子など、村人たちのリアルな姿が浮かび上がってくる。

 関根家の現当主・健一さんが2018年に自宅の蔵の中から古文書を発見し、地元の歴史愛好団体「玉村歴史塾」の協力を得て古文書を読み解いた。分析対象の文書は1700年代中期から明治後期まで。整理された史料は2千点を超えた。

 江戸時代の三大飢饉の一つ「天保の飢饉」は天保4(1833)年に始まった。冷害で凶作となった東北各地で多数の餓死者が出たほか、米価高騰から各地で一揆や打ち壊しが起きた。

 要覧では、古文書に記された飢饉の様子が紹介されている。

 天保7(1836)年 「4月より雨天続く。夏、冷気不順にて稲実らず。天明3年この方稲不作」

 同8(1837)年 「所々倒死人数知れず。殿様、御救麦を二度、五十俵下さる」

 ただ、御救麦は後々、返済することになったという。「困窮人二二〇人」という記載も。これは当時の村民の3割近くと推測されるという。

 文久3(1863)年に起きたひょう被害では麦が大打撃を被り、高崎藩から救済麦を受けている。これは現物ではなく、麦1石を1両として117両の現金が与えられた。これも返済が求められ、翌年から6年間の返済記録が残っている。

 生活困窮から借金した人の返済が滞った際に、減額(救施)したという記録もあった。「20人、15両の返済が滞り、これを困窮ということで救施金とした」。村役人と20人の印が押されていた。

 古文書には、旅や湯治の記録も多数あった。嘉永5(1852)年に、関根金八が1カ月間、関東地方の参詣(さんけい)旅に出ている。訪れた先として記されていたのは、日光や鹿島大神宮、成田不動尊、浅草観音、江の島弁財天、湯島天満宮など。宿場町もつづられている。

 湯治の行き先は伊香保温泉が多く、お伊勢参りもしていた。家族だけではなく、近隣の人と連れだって出かけた時もあったようだ。湯治では自炊していたので、米、みそ、薪などの必要金額として990文という記載もあった(年代不明)。

 地域の祭り見物の誘いの文書もあった。「先にお話しした下茂木踊りの見物に、弥蔵、卯市も同道したい」(同)

 玉村歴史塾のメンバー、片山壹晴さんは「村が日常生活の単位で、村人同士は結束していた。古文書を読み解くと、一生懸命だけれど、生き生きとした暮らしをしていたことが分かる」と話している。(角津栄一)

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