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広島女学院高等女学校4年の時に被爆した三原霜子さん=2024年5月7日午前11時43分、広島市西区、大野晴香撮影

聞きたかったこと 広島

 軍国主義に染まった戦中、軍司令部や武器を造るための工場に動員された女学生たちがいた。79年前の8月6日、戦争に翻弄(ほんろう)された多くの少女たちが命を落とした。

 広島市西区の三原霜子(しもこ)さん(94)は、広島女学院高等女学校の4年生だった。広島県呉市吉浦町のおじ宅に下宿し、広島市上流川町の同校(現・中区上幟町)に通っていた。

 「夏雲 広島女学院原爆被災誌」によれば、女学院の生徒たちは終戦の約1年前から、府中町の東洋工業(現・マツダ)や呉市広町の海軍工廠(こうしょう)などに動員された。勉強に専念できる環境ではなかった。

 体が弱かった生徒たちは「居残り組」として学校に通い、三原さんもその1人だった。8月6日の原爆投下の1~2週間ほど前、比治山の寺に設けられた軍の分室に他の生徒5人とともに動員された。「戦死した兵隊さんの遺骨を箱に入れ、ご遺族に引き渡す用意をする仕事だった」と振り返る。

 そしてあの日の朝、呉線吉浦駅で広島行きに乗った。いつも同じ汽車に乗り合わせる1学年下の友人がいたが、この日は姿を見なかった。

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