《1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立。美術全集「アート・ジャパネスク」(全18巻)や、文明の歩みを壮大な年表にした「情報の歴史」を手がけながら、「編集工学」の構想を練った》

 「我々は生(なま)ではない」というのが、私の考え方の基礎にあります。メガネをかける。鉛筆やパソコンを持つ。言葉や図形や数字を使う。そこには必ず技術とか工学が加わっている。となると、編集というものも工学の何かを借りている。あるいは、編集そのものが工学じたいを生み出している。工学性が編集に与えた影響と、編集が工学にもたらしたものをひもづけたい。そう思い始めて、「編集工学」に向かっていきました。

 《96年に「知の編集工学」で体系をまとめたが、同時にメディアへの失望も感じていた》

 いちばんの理由は、ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争です。この二つをきちんと捉えきれていない日本の実状に、かなりがっかりしていました。

 言い換えると、私が超えなければいけないのは国民国家というものでした。元は国家どころか小さい単位でたくさんのものがあったのに、それが近代化を目指して国民国家を作り、徴税と徴兵のために「国民」と「そうでないもの」を分けてしまった。ふとメディアを見ると、テレビも新聞も雑誌も国民国家的になっている。これでは元々あった自由度や多様性から遠いなと、ずっと思っていました。

仮想空間に構想した「図書街」の立体模型。スタッフから贈られた58歳の誕生日プレゼントだった=本人提供

 そういうなかで、知の編集工学にかたちを求めたい。こういうものはどんなかたちにできるのかと考えて、インターネットの片隅に「編集の国」を作るという発想に至りました。編集だけが進んだ国に旅をして、また戻っていく。プリントメディアだけではなく、生きた状態で立ち寄れるところを作ろうと。

 編集工学者・松岡正剛さんが半生を振り返る連載「『わかりやすさ』に抵抗がある」。全4回の最終回です。

 それが後に、編集の方法を学…

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