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タレントとして関西のテレビやラジオで活動していた露の紫は2008年、大阪市の天満天神繁昌亭で「落語家入門講座」を受講した。30歳を過ぎ、MCのスキルアップや話のネタになれば、という思いだった。
ミヤコ蝶々ら芸能界の大御所は「落語を聞きながら寝る」と知り、もともと興味はあった。本職の師匠たちは素人相手にしぐさやイントネーションなど容赦なかったが、そのスパルタぶりが心地よかった。
講座が終わる8月ごろ、女性落語大会「第1回ちりとてちん杯」の募集要項が来た。「せっかくネタ覚えてるんやし、もうすることないかもしれないな」。力試しで出場したら、最高賞のちりとてちん賞に。
お笑いは好きだったが、芸人になるほどの力はないと自覚していた。小さな芝居の端役で役者もしていた。「はっと気づいた。落語家って両方備わってるな」。視界が急に開けた。
10月、審査員だった露の都に入門した。34歳になっていた。
人前ではしゃべり慣れている。芸歴は華やかだ。入門5年で出場したNHK新人演芸大賞の落語部門は、受賞した鈴々舎馬ること同点で並び、異例の決選投票にもつれこんだ。翌年、繁昌亭大賞輝き賞に選ばれた。
「初挑戦は、いい成果出すんですよ、ハハハハハ」。過去の栄光を笑い飛ばす。
まだ数の少ない女性落語家に対する、偏見や差別が根強い時期だった。「女に賞を取らせるもんか」といった圧力を感じた。師匠のいない仕事先では、笑いながら「消えていくわ」と指をさされたことも。
「もう悔しくて。女で初めての賞をどんどん取っていきたい。めちゃめちゃ野心に燃えてました」。当時を、こう振り返る。「すごく可愛くなかったときですね。私、とがってた」
初めて出たNHKで決勝まで行ったことで、「また次も決勝へ行かないと」という意識が生じた。15年には上方落語若手噺家(はなしか)グランプリが始まった。身近になったコンテストで勝つために噺を探したり、縮めたり。そんなことばかり考えるようになった。
繁昌亭の定席に出ても、前後の出演者の流れも考えずに、コンテストで演じる噺ばかりかけた。
「まあ本当に受けなかったです。その日のお客さんが何を求めてるかな、を読まずに『これ面白いでしょ』っていうのをやるから」。後輩が増えて出番が遅くなり、寄席興行の全体を見るようになった。いまなら、開口一番の前座ネタが受けていなかったら、私が盛り上げなければ、という役割がわかる。
その後も賞レースではいいところまで行くが、ガラスの天井に当たる。
新人落語大賞と名称の変わっ…