日本の原子力施設で初めて被曝(ひばく)による死者を出した茨城県東海村の核燃料加工会社「JCO」の臨界事故から9月30日で25年。当時の村長だった村上達也さん(81)を訪ね、改めて事故当時や原子力政策について聞いた。
助役からの電話「臨界事故が起きた」
この日、朝から会議のため栃木県へ向かっていました。正午過ぎ、携帯電話が鳴りました。村の助役からです。「JCOで臨界事故が起きたようだ」と。
臨界事故なんか起きるのかと、正直、イメージできませんでした。すぐ東海村に戻りました。
《1999年9月30日午前10時35分にJCOで警報が鳴る。午前11時50分過ぎ、被曝したJCO従業員3人を乗せた救急車が国立水戸病院(当時)へ出発。午後0時半、村は屋外に住民が出ないよう村内広報を始めていた。》
東海村に近づくと警察官の姿が目に付きました。午後2時前後に役場に着きました。上空には報道各社のヘリコプターが何機も飛んでいて、役場には住民や報道陣がたくさんいました。もう戦場のような騒ぎでした。
「この範囲の人を避難させて」
午後2時半ごろ、JCOの職…