Re:Ron連載「よりよい社会」と言うならば(第10回)
選ばれるために、羽を広げて色とりどりの模様を見せつける生物がいる。
選ばれるために、「ウホウホ」と胸をたたく生物もいる。
そしてここに、選ばれるために、
「ゼミで(またはサークルで/バイト先で)リーダーとして、課題を分析し、周囲を巻き込んで改善活動をしてきました。正論で人は動かないので、周りの人との対話的なコミュニケーションを欠かさず……」
などと語る生物がいる。――企業で採用面接を受けている就活生だ。
そうもなるだろう。企業は今日も学生に「主体性」や「リーダーシップ」「コミュニケーション力」を求めると明言している。ならば、そのペルソナめがけて学生個人は乗っかるほかない。「ガクチカ」(学生時代に力を入れたこと)という自分史に「リーダーシップ」「主体性」などの旬で引きの強い「能力」を盛り込み、羽を広げ、胸をたたく。普段はそんなキャラであろうがなかろうかは関係ない。
だが実のところ、組織開発を専門にする者として思うのは、「求める人物像」のとおりの言い出しっぺ的旗振り役ばかりが集まって成せる仕事なぞ限定的だということだ。仕事というのは、粛々と回してくれる人やリスクを考えて何かとストップをかける人……など、多様な持ち味の人がいてはじめて成り立つ。車でたとえるなら、アクセルやハンドルあたりが「主体性」のイメージとされがちだが、一つの車にそれらが三つも四つもあったらどうするというのだ。タイヤやブレーキ、ワイパーだって、安全に走行する車には欠かせない。
変革のスイッチを模索
この就活の規定演技感、茶番感。多かれ少なかれ、皆気づいている。しかし新卒一括採用の慣習が強い日本において、学生からしたら何はともあれ内定をもらわねば話にならない。また人事採用担当者は、応募書類をある時期に一度に、「採用ミス」なんて言われない精度と煩雑さのせめぎ合いの中でさばかねばならない。つまりお互いに問題提起する余裕はないのだ。そうしてのど元過ぎれば熱さを忘れるがごとく、就活はいつの時代もイマイチなのだが、抜本的な変革を免れる。
イマイチでも、さしてほころ…