
「2520」
東日本大震災で遺体が見つからず、14年がたっても行方がわからない人の数だ(警察庁発表)。災害関連死を除く全犠牲者の14%を占め、その数の多さでも日本の戦後史上、特異な災害だった。
実は、この2520人の中に数えられていない4人の漁船員がいる。
2011年3月11日。
大分県津久見市の保戸島(ほとじま)を母港とするはえ縄漁船、第3くに丸(77トン)は、ビンチョウマグロの水揚げのため、国内有数のマグロの基地、宮城県の塩釜港に入っていた。
夕方にはまた出漁だ。船員が準備に走り回っていた午後2時46分、強い揺れが襲った。
「津波が来る。沖へ出ろ!」 第2波が直撃した
水産問屋の人たちが促した。「津波が来るぞ。早く沖へ出ろ!」
船長以下、大急ぎで乗り込み、エンジンをかける。港を出て第1波はやり過ごしたが、10メートルを超える第2波に直撃された。4人が波にさらわれ、海に落ちた。
「危ないので船室にいたはずが、様子をみようと甲板に出たらしい」。そんな証言が残る。操縦室も横波を受け、機関長は顔に大けがをした。機器の損傷で、船は航行不能になった。
海上保安庁の救助ヘリが到着したのは、翌日朝。海上の捜索が続けられたが、4人を見つけることはできなかった。
行方不明になったのは、いずれもインドネシアから出稼ぎに来ていた青年だ。27歳、29歳、30歳、30歳。乗り組んでいた10人中7人がインドネシアの人たちだった。
「日本の若者は、厳しい海の仕事に就こうとしない。インドネシア船員なしではたちゆかなくなっていた」。保戸島のマグロ船のリーダーの男性は、取材にそう話した。
当時、第3くに丸の遭難は報道もされている。4人はなぜ、警察のリストから漏れたのだろう。
消えた出稼ぎ青年たち 警察のリストから漏れ
宮城県警の元幹部が明かした。県警が東京の大使館を通じて4人の家族に照会したが、「もういいです。正式な行方不明届は出しません」と回答が来たのだという。
私には、気になることがあった。
震災後、宮城県の海上や沿岸部で発見された遺体のうち、身元が判明していないものが6体ある。うち4体は海上で、なかでも2体は船の遭難場所に近い松島湾周辺で見つかっていた。遺体はすでに骨になり、自治体が保管している。
この中に、インドネシア船員が含まれる可能性はないか。遠いふるさとで、家族は息子や夫の手がかりを待っているのでは――。
空路6千キロを飛び、首都ジャカルタからは列車と車を乗り継いで5時間。インドネシア・中部ジャワ州ブレベス県の小さな村に、その店はあった。
売り物はたばこや菓子、スマホのSIMカードなど。看板にはこうある。
「NIEPHON(ニッポン)」
6人きょうだいの2番目、トニー・セティアワンさん(震災当時30)が日本から届けた仕送りを元手に、一家が20年ほど前に開いた。店の名はトニーさんがつけた。兄と弟2人も韓国に出稼ぎに出ており、農村部ではそれが当たり前のようだった。
帰国を延期した不運 結婚約束した人もいた
「きょうだいの中でもトニーが一番、家族思いだった」と、妹のフェニーさん(42)は言う。地元の水産高校を卒業した1999年、募集に応じて、保戸島の技能実習生に。途中から、外国籍船員として乗り組むマルシップ制度に切り替わった。その3度目の契約期間の最後に、震災にあった。
不運だった。
家族によると、3月10日に塩釜入港後、トニーさんはそのままインドネシアに帰国するはずだった。故郷には、結婚を約束していた女性もいたという。それが、友人を待って一緒に帰ることになり、便を1日延期。家族のもとにも11日朝、その連絡があった。
「また電話する。父さん母さんは迎えに来なくていいよ」
その日午後、日本を大津波が襲った。
バンドンに住む叔父が「センダイに津波が来たとニュースで言ってるぞ」と、電話をしてきた。トニーさんからよく聞かされた地名だった。
「とにかくジャカルタの空港まで行こう」と、末の妹ウィウィさん(34)らが車を飛ばした。夜中に到着し、空港職員に「日本からの便は?」と尋ねても、要領を得ない。
翌朝まで待ったが、兄は現れなかった。
夢に出てきた兄「ごめん、連絡できなくて」
津波にのまれた4人の名前が地元ニュースで流れたのは、2日後の13日。
その後、東京の大使館から「3カ月たっても見つからなければ死亡と認定する」と連絡が来て、家族は保険金などの手続きをとったという。経緯ははっきりしないが、手続きの過程で、日本の警察には届けを出さないことになったとみられる。
それでも家族は待ち続けた。
葬儀は行わず、墓もつくっていない。「だってひょっこりトニーが帰ってきたら、申し訳ないでしょう」と、母親のヌル・ヒダヤティさん(66)。
フェニーさんは、最近見た夢にトニーさんが出てきたという。「ごめん、連絡できなくて」と兄は謝っていた。ウィウィさんも「遺体が見つかってない以上、どこかにいるという感覚なんです」と言った。
手詰まりだった捜査班 「久々の有力な情報」
インドネシアで取材する前、私は同僚を通じて宮城県警に相談をしていた。
仙台市にある県警本部の地下1階に、震災の行方不明者情報を束ねたファイルがずらりと並ぶ部屋がある。捜査1課の身元不明・行方不明者捜査班の5人が詰め、見つかった遺体についてリストと照合し、DNA型鑑定などで「誰」かを突き止める作業を地道に続けてきた。
班が発足した11年11月からこれまで、約560体を特定した。その残りが6体。だが21年を最後に、新たに判明したものはない。
インドネシア船員のことは、警察内部で引き継がれていなかった。班長で検視官の中村京寿(きょうじゅ)警部(45)は「手詰まりだった我々にとって、久々の有力な情報。顔写真や家族構成が入手できればありがたい」と言った。
泣いて捜し出した写真 遺体の似顔絵に似ていた
インドネシアで私は、トニーさんを含め、中部ジャワ州に住む船員3人の家族に会うことができた。
ルディ・ハルトノさん(震災当時30)の妹は、話しながら涙が止まらなかった。ルディさんの写真を捜し出し、接写させてくれた。もう1家族は、7年前の水害で家財一切を流されたといい、写真は入手できなかった。
トニーさん、ルディさんの写真を含め、現地で得られた情報は、家族の了承のもと県警に提供した。
県警の専門家が遺体の頭蓋骨(ずがいこつ)から推定して描いた似顔絵がある。見比べると、トニーさんの写真が、塩釜沖で見つかった「B425」番の男性によく似ているように思えた。
県警は今後、警察庁などと協議の上、何らかの方法でインドネシア船員の家族のDNAを採取し、遺体との照合を進めたいという。符合するかどうかはわからない。「待っている家族がいる以上、可能性がある限りは調べる」と中村班長は話した。
「たとえ骨でも、帰ってきてほしい」
取材を続けながら、私には迷いもあった。
調査が進み、仮に船員の誰かの遺体が見つかったら、かすかな望みを持つ家族に、現実を突きつけてしまうことにならないか。
だから、インドネシアの家族には「それでもいいですか」と、念を押す質問もした。
トニーさんの母ヌルさんは答えた。
「たとえ骨であっても、息子の証しであるなら、帰ってきてほしい」
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