
そんなに急いでどこへゆく~スロー再考⑤
年商100億円超のIT起業家が、インドで仏門に入り「さまようボウズ」に――。小野龍光さん(49)が「人生を生き直したい」と思った理由とは。マネー、競争、数字、成果。「もっと、もっと」を追い求める世界から降りたことで、見えたものとは。
――IT業界を牽引(けんいん)する立場から、突然仏の道に。一体何が?
際限の無い欲望の副作用に苦しむようになったからです。
社会的な成功を得ても、苦しみが増えて、幸せを感じられなくなった。「もっと拡大したい、もっと立派な投資家に、もっと……」となり、自分の本当の幸せは? と考えた結果の選択でした。
振り返ると、「ドーパミン(快感や意欲向上につながる神経伝達物質)系」の脳の反応に、自分がのっとられていたのだと思います。強い喜びを感じる。でもそれは一瞬で消えてしまい、もっと強い刺激を求める、ということの繰り返しでした。
――「出家前」の歩みを教えてください。
札幌市で生活を切り詰める家庭で育ちました。父は消火器の修繕などを仕事にし、母はリヤカーを引いて弁当を売っていた。兄と姉と僕の5人家族。父の影響で生物や宇宙に興味を持ちました。
尊敬する親友の影響で、成績が悪かったのに東大を目指しました。当然、不合格。両親に頼み込み、奨学金で東京の予備校に通い、1年浪人を経て東大に入学して生物学を学び始めました。DNAを読み込み、生命の神秘を解き明かす研究です。
――この頃、ITの世界に引かれていった?
1990年代、大学の研究室でインターネットのプログラミングにはまりました。出会ったことのない人と人が瞬時につながる。時空をジャンプできる仕組みに強烈なおもしろさを感じました。2000年4月にIBMに入社。趣味でiモードのサイトで対戦ゲームをつくり、それが雑誌に掲載され、創業間もないサイバーエージェントグループから声がかかり、シーエー・モバイル(現CAM)に入社しました。私も含め数人でスタートし、売り上げも利益もぐんぐん伸び、私が08年に会社を辞めるときは600人の社員がいました。
企業に投資して成長させて利益を得る企業投資(VC)の世界にも興味を持ち始め、日本、中国や台湾で投資を本格的に始めました。
扱う数字が大きくなり、私自身が投資先に社長や経営者として入って、会社を立ち上げていきました。投資家という肩書でありながら、起業家でもあったのです。
――当時、信じていた価値観とは?
インターネットが人と人、人とモノ、人と情報をつなげて人類に新たな幸福や価値をもたらすという考え方です。この価値観はいまも変わっていません。
投資では、新しい価値を提供したいという会社を見つけ、株を買い、成長したときに売るのが仕事でした。例えば、VCで私が台湾と日本で関わった「17LIVE」は、ライブを誰でも配信できるアプリを提供する会社です。視聴者が「いいね」やコメントでき、アプリ内のギフトも贈ることができる。無名の音楽家がプロになるなど、多くの方々に喜んでいただけました。
「数字をつくる」喜びが違和感に
私見ですが、その過程では、「数字をつくる」ことが必須です。
株価を上げ、リターンを投資家にバックしていくこと。成長させる面白さがある一方で、売る前提です。ゼロからメンバーを集め、彼らに夢を語り、「売り時」を待つ、という存在でした。
「世の中のため」だと思っていましたし、うそはない。でも、やりにくさや罪悪感を覚えるようになりました。
――「数字をつくる」。その違和感とは具体的に?
株価は夢を語って、つくられる数字です。
一般の株式市場では、投資家に対して「この会社にはこんなに素晴らしい未来があります」と信じて伝える。実相は、きれいにお化粧をして、実態よりつりあげていく世界観がある。ほとんどの上場企業が善意を含めてやっているのかもしれない。そうして生まれる数字への違和感を強く覚えるようになりました。
特に08年にリーマン・ショック、11年には東日本大震災もあり、努力しても結果が出ないということが起こるようになりました。世界経済は不調でも、投資家は「なぜ増やせないのか?」となる。ますます、業界全体が数字をつくり出そうとする。
とても不自然な行為にならざるを得ない。つまり、無理やり数字をつくるわけです。
いかに速く数字=株価をつり上げるか、という力学が強まる。速ければ速いほど有利。時間内にどれだけお金を増やすかというゲームに駆り立てられる。本来は3年かけてじっくり成長できるだろう企業でも、じゃぶじゃぶお金を使わせ、半分は離職すると分かっていてもどんどん人を採用し、広告・宣伝費もたくさん使うことで、ガソリンをがんがん流し込み、無理やり車を走らせることもある。
「競争力をつける」「マーケットをとりにいく」などの大義名分はあります。結果を出すことで、有利な立場になれる。でも次第に、「経済市場の中でも本当に価値があるものは、本来であれば自然に広がっていくのに」、という疑念が強くなりました。

「顔は笑っているが、目は笑っていない」
――そんな世界にいて、自身にはどんな影響が?
議論も大切にしましたが、自然とタイパ(タイムパフォーマンス=時間効率主義)とコスパの強い引力に引き込まれました。
過程よりも「結果」が一番大切だという考えで、一日が回っていきました。アイデアを思いつくと、実行したくてたまらなくなる。
実行すると数字が伸びる。
もっと、もっと、とやる。うれしくなる。
ドーパミン系の脳の反応が続いていた。睡眠時間は3、4時間。成長できそうな新しいアイデアや困難な時の打開策を思いつくのは得意で、寝室でも思いつくと携帯にメモして部下に送っていました。当時、「小野さんは顔は笑っているが、目は笑っていない」と部下や周囲からよく言われました。怖い上司だったと思います。
でも本質は、お金を無理に燃やすことをしていた。そこには苛烈(かれつ)な競争とムダな闘い、蹴落としも生まれる。振り返ると2014年ごろから、仏陀の教え、原始仏教の言葉にひかれるようになりました。
身長170センチ、50キロでしたが、ストレスから最大で70キロに太りました。むちゃなお酒の飲み方をするようになり、妻から心配されたことも。

運動と気分転換のため、マラソンを始めました。努力に比例して結果がでないこともある投資の世界とは異なり、やればやるほど体が整うことがうれしかった。自然に触れて、CEOの席で数字と向き合う「私」がいかに小さいか、自然や他者がいなければ自分も生存しえないことをかみしめた。でもまだ、「結果」を求める思考様式でした。
そんな中、親友の経営者が自死するということがあった。私の中の苦しみや葛藤も大きくなる一方でした。コロナ禍をきっかけに、休日は人を避けて自然に向き合い深呼吸するために、山里で過ごすようになりました。行きすぎた資本主義の負の側面を、経験を通して痛いほど感じていました。
――2022年、「17LIVE」のCEOを辞職しました。
社員や友人は、寝耳に水で衝撃だったそうです。ただ、自分としては、もう無理だった。
次の仕事は何も決めず、まずはこの世界を離れて、数字の拡大だけにとらわれない生き方をしようと決意しました。
多少の蓄えはあったのですが、妻も私も、本当に困ったら畑を耕すなどして生きていけるという考えでした。住まいは、自給率の高いオーストラリアに移しました。
心配して訪ねてきた友人たちの中に、袈裟(けさ)姿で現れた友人がいたのです。こういう生き方があるのか、という驚きがありました。
インドで出会った信者1億5千万人のトップ
――友人に誘われ、インド旅に出ました。
はい。インド13都市をバックパックで34日間旅をしました。
そこで1億5千万人の信者がいるインド仏教のトップで日本人の佐々井秀嶺上人(88)に出会い、5日間一緒に過ごさせていただきました。佐々井上人は、中西部のナーグプルという町に半世紀前に住み始め、仏の教えを説き、子どもたちに教育の機会をつくるなど献身的に地域の方々に尽くしてこられた方です。
この町はゴミが少ない。朝から住民が掃除をして、元気に笑顔であいさつをして、美しい目をしていました。佐々井上人自身、1億5千万人のトップですが、偉ぶらず、バケツをトイレとして、寝る場所だけの簡素な部屋で暮らし、質素な食事をして、ひたすら他人のために尽くしておられる方でした。周りの人たちも、忖度(そんたく)ではなく、心から上人を尊敬し、大切にしている様子が伝わりました。

――得度までしたのは?
私の選択は、ある意味、極端だと自覚しています。でも、生き方を模索していた時期で、ゼロにリセットしたかった。得度は、いわば「三途の川」を渡ること。新しい名前をいただき、生まれ変われるチャンスです。一方で、大した知識もなく、この程度で仏道に入っていいのかと悩みましたが、上人に「お前も坊主になるんだ。名前をさずける」と言ってもらい、こんな機会はないなと思い選択しました。インドでは僧侶の妻帯を認めないのですが、全財産を妻に委ねて生まれ変わることを決意し、インドの衣を着て日本で活動することを許されました。
でも得度すればすべて解決するわけではない。自分次第です。「さまようボウズ」の始まりです。
――京セラの創業者・稲盛和…