林真理子さんに聞く(3)
敗戦後、瀬戸内寂聴さんは家を捨てた。その後も道ならぬ恋を繰り返した。2021年11月に亡くなったときも「子どもを捨てた女」とインターネットでたたかれた。「ふざけたことを言ってるんじゃない」と林真理子さん(70)は一喝する。不倫があったからこそ、名作が生まれたのだと。
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――戦争が寂聴さんの生き方にどう影響したと思いますか。
ふるさとの徳島の防空壕(ごう)でお母さんが亡くなられたわけですから、戦争体験が原点です。平和への思いがすごく強い。
災害が起きればすぐに被災地に行き、原発にも反対しました。でも、正攻法で訴えるのは恥ずかしいと思っていたかもしれません。
書くという強い欲求
――正攻法とは何ですか。
作家ですから、書いて訴えるのが正攻法と言えます。でも、先生が戦争のつらさを書いた本は多くありません。
先生は戦時中にお見合い結婚し、夫と北京で過ごしました。空襲で逃げまわったり、夫が戦死したり、そういう経験はされていません。お母さんの死を知ったのも終戦の1年後、徳島に戻ってきたときです。
戦争から一歩引いたところにいました。外地で苦労したと思って徳島に帰ってきたら、もっとひどいことになっていた。その衝撃が、戦争に対する引け目になっていたと思います。
その点が田辺聖子さんとの違いです。田辺さんは少女時代に家が丸焼けになり、死体がブツブツと音を立てて焼けている道を歩き回りました。先生は、そういう体験をしていらっしゃらないから、戦争の本をあまり書いていません。
ただ、年を重ねるとともに危機感が強まりました。あれだけの代償を払った日本がまた同じ道を歩んではいけない。未来ある若者を戦場に送り出すわけにはいかない。その思いが反戦運動につながりました。
――1948年に幼い娘を残して家を出ました。その影響はどうでしょうか。
敗戦後の虚無感のなかで、新しい時代に乗りたいと期待したと思います。でも、ご主人を好きではなかったことが一番ですよね。
ふつうの人はそれを我慢して結婚生活を続けますが、先生には書くという強い欲求がありました。当時は女性が一人で生きようとしたら、子どもも家もすべてを捨てなければならない時代です。
寂聴さんの不倫は命がけだった
――不倫については、どんなことをおっしゃっていましたか。
文春砲という言葉がはやり始めたころに対談しました。先生が「最近の不倫はおかしいわ。真理子さんはどう思う?」と聞かれるので、「先生だって不倫をしていたじゃないですか」と言ったら、ムッとされ、「私たちの不倫は命がけだったから一緒にしないで」と叱られました。
先生は魅力的ですから男の人がいっぱい寄ってきたそうです。あの声やしぐさが色っぽいですよね。「私は美人じゃないけどモテたのよ」とおっしゃっていました。
女性はお見合いをして家でおとなしくしている時代に、男性中心の文壇で胸を張って書き続けたわけですから、かっこいいですよ。
――激しい恋をどうみていますか。
寂聴さんへの批判的な書き込みに、林さんは「寝ぼけたことをぬかすな」と一喝します。その理由が語られます。
恋愛体質だったことは確かで…