上田自由大学の講義風景。講師はタカクラ・テル=上田市立博物館蔵

大正期、先駆的な取り組み

 長野県上田市といえば、真田の里として知られる。戦国時代に真田父子が強大な徳川勢力を打ち負かした物語は、小説やドラマの格好の材料になってきた。一方、そこまで有名ではないものの、大正期にも歴史に名を残す出来事があった。上田自由大学である。高等教育の機会に恵まれなかった農村の青年たちが、自ら学びの場をつくり、働きながら学習した先駆的な取り組みだ。新潟や群馬などにも広がった自由大学運動発祥の地を訪ねた。

 「学問の中央集権的傾向を打破し、地方一般の民衆がその産業に従事しつつ、自由に大学教育を受くる機会を」。高らかな趣旨のもと信濃自由大学(後に上田自由大学に改称)の講義が始まったのが1921年11月。校舎もなければ教室もなく、神主らが会議に使う神職合議所を借りての出発だった。

 自由大学の研究を続けてきた長島伸一・長野大学名誉教授に、現地の案内をお願いした。かつての建物は失われているが、屋根にあった鬼瓦だけは記念に残されている。「建物は粗末だったが、集まった人たちは本当に熱心に学ぼうとしていた。そこに感動したと、最初に教壇に立った講師が書き残しています」

 その講師は法哲学者の恒藤恭(つねとうきょう)。後に京大教授となり、言論弾圧事件として知られる滝川事件で抗議の辞任をした硬骨漢である。講義では学ぶ人たちの様子を見ながら、途中でやや基礎的なものに改めたという。とはいえ新カント派の哲学を語り始めたというから、決して易しくはなかったはずだ。

豪華な講師陣

 神職合議所の跡地から少し商店街を歩くと、講師たちが泊まった旅館の建物が残っていた。「旧上村旅館」の標識がある2階建ては今はもう使われていないが、当時は相当モダンな洋館だったに違いない。ここに泊まったであろう講師は、文学論のタカクラ・テル、哲学史の出隆(いでたかし)や谷川徹三、社会学の新明正道ら。後に名を残す学者も少なくない。この旅館も学びの場になったようで、聴講生が訪ねてきて討論になったという記録がある。

 「旧制高校から大学へと進学できる人はごく一握りで、青年たちは学びに飢えていた。しっかりした学問をしないと社会がおかしなものになってしまう。そんな意識が強かったと、研究していて感じます」と長島さんは言う。

記事の後半では、自由大学が生まれたきっかけや、その背景について考えます。

 ことの始まりはこの地の青年…

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